武満徹の世界【日本の誇る世界的作曲家の生涯】

果たして「武満徹」という名前を挙げてどれぐらいの人たちが作曲家として認識してくれるでしょうか。もう亡くなってから20年以上経ちます。65歳での死は余りにも早すぎました。

日本を代表する現代音楽家として、世界中で有名になりました。ただ、日本ではクラシック通の方以外はほとんど知られていなかったのが実際の事です。日本で人気が出て来たのは遅かった人物でした。

小澤征爾の指揮で『ノヴェンバー・ステップス』を聴いたことがありますが、日本の古典楽器とオーケストラの組み合わせに驚かされました。凄い楽曲です。こんな素敵な作品を残した武満徹の生涯に光を当てたいと思います。

日本人なら武満徹の名前だけでも知っておいてほしいものです。
日本よりもが欧米での知名度が高い作曲家なのだ。日本人も常識として知っていてほしいね。

武満徹の生い立ち

作曲家、武満徹が幼少期どう過ごし、その後どうして作曲家の道へ進んだのかをみていきます。どんな少年時代、青年時代を過ごしたのかとても興味があります。

武満徹の子供時代

1930年10月8日に東京本郷区(現、文京区)で生まれました。父は保険会社の会社員、祖父は衆議院議員だったそうです。

生後1ヶ月から大連で過ごしましたが、1937年、小学校入学のために単身帰国し、叔父の家で7年間を過ごします。音楽などには興味もなく、ごく普通の小学生でした。

1943年、中学校に入学。戦争中でしたから当時の教育で、軍国少年になり、予科練の試験も受けましたが不合格でした。

音楽との出会いはこの頃で、学徒動員での作業中に、見習士官の1人が持参した手回し蓄音機から流れる音楽に運命的な出会いを感じて作曲家になることを決意します。

その時聴いた音楽はリュシエンヌ・ボワイエが歌う「聴かせてよ、愛のことばを」だったとそうです。クラシック音楽ではなかったのですね。

武満徹の青年期

終戦後はラジオ放送で音楽を楽しみ、横浜の進駐軍のキャンプでアルバイトをしていたため、ジャズに親しむ機会を得ました。

1948年、清瀬保二に作曲を師事しますが、先生から教わる事もなく、作曲の勉強はもっぱら独学でした。

高校卒業後、東京音楽学校作曲科(現在の芸大)を受験しますが、1日目の試験を終えただけで、2日目の試験は受けなかったそうです。音楽には学問なんか関係ないという理由でした。

先ほどは普通の小学生と書きましたが、子供の頃から変人の領域に1歩足を踏み入れたような人だったようです。

デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたといいます。

来られたほうはいい迷惑です。見ず知らずの人間に良くぞピアノを貸してあげたものと驚きますが、日本人ならではの優しさなのでしょうか。

その事を人づてに耳にした作曲家、黛敏郎は、妻のピアノをプレゼントしてあげたそうです。全く面識がなかったそうですから、こちらも日本人ならではの優しさですね。

このピアノのエピソードは笑ってしまいますね。
よくもそんな事ができたものだ。昔はピアノを持っている家庭は少なかったからね。訪問された家でも困っただろう。

前衛作曲家、武満徹デビュー

ほとんど独学で作曲を覚えた武満は満を持して自作を発表しますが散々にこき下ろされます。作曲家として独り立ちするにはまだまだ時が必要でした。

作曲家として本格デビュー

1950年に、「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューを果たしました。しかし、かなりの酷評をされ、彼はとても落胆します。カッコよく期待の新人デビューとはいかなかったようです。

1951年、芸術集団「実験工房」の結成メンバーになります。メンバーは作曲家の湯浅譲二、鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫らでした。メシアンとベルクに影響を受けた時期です。

「実験工房」内での同人活動として、メシアンの研究と電子音楽(主にテープ音楽)を手がけました。この時期は前衛音楽家として、普通の人には理解できない音楽を書いていたのです。

作曲家として自立の道へ

この当時から作曲家としての仕事が舞い込み始めます。とはいってもクラシック音楽ではなくて、映画音楽や舞台音楽、ラジオ、テレビの音楽でした。自立するためどんな仕事でも受けるようになります。

そういった音楽を作曲していると、様々なところからのオファーがあり、クラシック音楽作曲家とは違う仕事を次々とこなしていきました。

そのうちに武満の作風も次第に変わっていき、前衛的なものは影を潜め、誰にも分る音楽へと移行していきます。コマーシャル音楽なども作曲していたため、そうならざるを得なかったというのが正しいでしょうか。

NHKの大河ドラマのテーマなどの仕事も任されるようになり、武満徹の音楽は次第に広がっていきました。

武満徹、世界的作曲家へ

正式デビュー曲『2つのレント』では酷評され、作曲家として食べていけるようになるまでは数年の時が必要でした。しかし、世界に認められるようになったのは偶然がもたらしたサクセスストリーといえます。

世界的作曲家への第1ステップ

1957年、『弦楽のためのレクイエム』を発表します。この作品のテープを、1959年に来日した作曲家ストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛したのです。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」主催の作曲コンクールにおいて、8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞しました。この頃、指揮者の小澤征爾と知り合い、以降、生涯に渡り親友となります。

1960年以降は武満の名声も高まり、映画音楽のオファーが増えてきます。日本映画の代表作には彼の音楽が使われるようになりました。

一躍、世界の「Takemitsu」へ

小澤征爾の紹介がきっかけとなって、アメリカの名門オーケストラ、ニューヨーク・フィル125周年記念作を委嘱されます。その委嘱テーマは、邦楽器とオーケストラの組み合わせでした。

琵琶の鶴田錦史と尺八の横山勝也という2人の名手の演奏を念頭に置いて作曲された名作『ノヴェンバー・ステップス』が誕生します。

1967年11月9日、ニューヨークの文化の中心リンカーン・センターに位置するエイブリー・フィッシャー・ホールで行われた初演は今や伝説的です。

小澤征爾と共にステージに登場した2人のソリストは、奇妙な楽器を手にした羽織袴姿の東洋人。初めは興味本位で見ていた聴衆の態度は音楽が進むにつれて一変。

終演後には演奏者と聴衆が一体となって会場全体がどよめくような祝福に包まれたのでした。

日本に「Toru Takemitsu」という才能溢れる作曲家が出現したというニュースはあっという間に世界に配信されたのです。

ストラヴィンスキーに絶賛された事が後の武満の運命を変えました。
凄い強運の持ち主だね。ストラヴィンスキーが彼の音楽を聴くなんて天文学的確率だったと思うよ。

前衛作曲家からの転向

武満徹の音楽は1960年代後半から変化を見せ始め、前衛的な音楽は次第に無くなり、調性に支配された従来の音楽に戻り始めます。

1980年に民音の依頼で作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、第29回尾高賞を受賞しました。この作品は前衛音楽はどこにも存在せず、ごく一般的なクラシック音楽となります。

時代が変わっていったという点も挙げておかねばなりません。その当時は実験的に行われていた前衛音楽は既に終焉を迎え、調性がはっきりした音楽への回帰が始まっていたのです。

この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めます。過去の武満徹はどこにいってしまったのかと酷評を受けるようになってきました。

武満徹の最期

1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが見つかり、数ヶ月に亘る長期の入院生活を強いられました。一時は退院しましたが、1996年2月20日、鬼籍へ入ってしまいました。

65歳という年齢はまだまだこれからという年齢です。一時退院した時に作曲した『エア』が最後の作品となってしまいました。

彼は、オペラを作曲する計画を立てていて、入院中も病室でアイデアを練っていたようです。タイトルも決まっていて、台本も出来上がっていたといいます。

65歳で逝ってしまうなんて早すぎます。素晴らしい作品をもっと多く残してほしかったです。
そうだね。オペラを企画していたというから、ぜひ聴いてみたかったよ。

映画音楽・テレビ番組作曲家としても有名

世界的な現代作曲家として名を成した武満徹ですが、映画音楽やテレビ番組の音楽も数多く作曲しています。この時ばかりは前衛音楽ではなく、ごく普通の手法で日本を代表するような名作にも曲を付けています。

映画音楽

1955年から映画音楽の伴奏音楽を数々作曲して来ました。100本以上ありますが、ここでは主な物だけをあげておきます。挿入歌が歌謡曲として流行した歌もありました。

『死んだ男の残した物は』と『燃える秋』などはそれなりのお年の方ならご存知かと思います。

『狂った果実』(1956年)
『切腹』(1962年)
『古都』(1963年)
『太平洋ひとりぼっち』(1963年)
『白と黒』(1963年)
『砂の女』(1964年)
『伊豆の踊子』(1967年)
『どですかでん』(1970年)
『燃える秋』(1978年)
『天平の甍』(1980年)
『乱』(1985年)
『黒い雨』(1989年)
『利休』(1989年)
『写楽』(1995年)

テレビ

テレビ番組のテーマ曲・伴奏音楽、NHKの大河ドラマをはじめ、各局に渡って作曲しています。映画ほどではないにしても40本以上になります。主な物をあげておきます。

私事ではありますが、吉永小百合が主演した『夢千代日記』シリーズは何といっても忘れがたい物になっています。

『源義経』NHK(1966年)
『天皇の世紀』朝日放送(1971年)
『未来への遺産』NHK(1974年)
『赤穂浪士』テレビ朝日(1979年)
『夢千代日記』NHK(1981年)
『続・夢千代日記』NHK(1982年)
『NHK市民大学』NHK(1982年)
『新・夢千代日記』NHK(1984年)
『21世紀は警告する』NHK(1984-5年)
『山頭火、何でこんなに淋しい風ふく』NHK(1989年)
『幻 源氏物語絵巻』NHK(1993年)

その他メディア

武満徹はその他ラジオ番組、演劇等の曲も作曲しています。本当に幅広く活躍してきた作曲家なのです。前衛作曲家として始まり、娯楽のためのごくごく普通の曲も作曲して来ました。

この辺りが武満徹の素晴らしさであり、何にでも対応できる柔軟さを持っている作曲家だったのだと思います。

まとめ

武満徹はどこか違う星から来てパパ~と音楽を作り、またどっかへ行ってしまったような感じがします。実験音楽をやっていた頃は分からない音楽ばかりですが、その他の音楽は本当に味わい深い音楽です。

武満徹を知らない人でも『ノヴェンバー・ステップス』はぜひとも1度は聴いて欲しい音楽です。感動しますよ。やっぱり武満徹は日本の宝です。もう少し長生きしてくれたらなと残念に思う作曲家でした。

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