モーツァルト

モーツァルトの音楽は、彼の頭の中に音符が振ってきて、それをただ五線譜に書き写したといわれています。まさに「天才」のなせる業です。彼は「天才」でしたが、常に音楽に対し、努力を惜しまない人物でした。だからこそ彼の音楽は磨かれ、傑作の数々を作曲出来たのです。

モーツァルトは現在でも様々なコマーシャルで使われていて、曲を聴けば「ああ、この曲知ってる」となる曲をたくさん生み出した作曲家です。35年の生涯で626曲もの楽曲を作曲しました。モーツァルトの楽譜を見るとほとんど書き直しがなく、清書したような美しさです。正に神!

幼少時からその天才ぶりを発揮し、神童と呼ばれました。王宮でのエピソードも面白い話ですし、この人物の生い立ち、生き方を辿っていくと、なんとも不思議な思いに捉われます。天才だったのかそれとも違ったのか、誕生からの人生を一つ一つ見ていきましょう。

誕生から幼少期まで

モーツァルト
天才モーツァルトの誕生とその成長振りを紹介していきます。子供の時の肖像画を見るととても可愛いらしいので皆から可愛がられたと想像できます。幼少期のモーツァルトは厳しい父に鍛えられ、否が応でも音楽家への道を歩まざるを得なくなります。モーツァルト最初の試練でした。

天才の誕生

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、ザルツブルクに生まれました。当時は神聖ローマ帝国領であったので、現在でもオーストリアとドイツとの間で出身国問題で揉めているそうです。ザルツブルク生まれですから、当然オーストリアが妥当かと思います。

父はレオポルト、母はアンナ・マリーア・ペルトルといい、7番目の末っ子としてモーツァルトは生まれました。他の5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称:ナンネル)だけがいました。この姉弟は、終生仲が良い関係で、手紙のやり取りが数多く残っています。

父レオポルトは宮廷音楽家でした。自分の音楽的地位を上げるために、様々な努力を惜しみませんでした。しかし、本人の希望はなかなか受け入れて貰えず、宮廷音楽家としての地位は低いままでした。レオポルトは諦めきれずに、自分の地位向上に奮闘しますが、無駄に終わります。

天才児モーツァルト

姉のナンネルは7歳のときに父親の手ほどきでクラヴィーア演奏を始めます。ナンネルも神童と呼ばれるぐらいの腕前になりました。しかし、モーツァルトは姉ナンネルが弾いている時に遊びでクラヴィーアを覚え、姉が弾いた曲を覚えて、自分で弾くようになりました。

これを見たレオポルトは息子が天才であることを見出し、3歳のときからクラヴィーア教え始め、5歳のときには 最初の作曲を行うなど、その才能は急激に伸びてきました。それ以降はレオポルトは自分の才能に見切りをつけ、その全てを息子の音楽教育のために注ぎ込みました。

演奏旅行の日々

ウィーン旅行
モーツァルト姉弟は父レオポルトの血を引いて音楽的才能に恵まれました。特に弟のモーツァルトは聴いた音楽をその場ですぐに再演して見せるなど、特異の才能の持ち主でした。演奏旅行中になされた様々な神童ぶりについて、そのいくつかを紹介しておきましょう。

神童の本領発揮

父レオポルトがモーツァルトを旅に連れて行くようになったのは、それ以降です。6歳からミュンヘン、ウィーンと音楽旅行をし始め、息子の売り込みに必死になりました。その演奏旅行はモーツァルトが青年になるまで続く事になるのですが、モーツァルトにとってハードだったでしょう。

父レオポルトは自分の息子が如何に優れた名手かを見せるために、モーツァルトに目隠しをさせピアノを演奏させたといわれています。また、後ろ向きになって鍵盤を弾かせ、演奏させたような事もありました。このサーカスの様な演奏会をモーツァルトはあちこちで繰り返しました。

また、即興演奏なども積極的に行ない、いつとはなしにモーツァルトは「神童」と呼ばれるようになり、有名になっていきます。今でいえば小学生の子供が、目隠しをしたり、テーマをもらって即興演奏するのですから、その名前は有名になってくるのが当然です。

マリー・アントワネットとのエピソード

最初の音楽旅行でウィーンに言った際の話です。まだ6歳の子供時代の話ですから、大人になってからのモーツァルトは忘れていたことでしょう。真偽の程は定かではありませんが、有名なエピソードとして長らく語られています。そうです、あのマリーアントワネットと出会うのです。

1762年1月にミュンヘン、9月にウィーンへ旅行したのち10月13日にはシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏することになりました。めったにお目にかかれない出来事ですので、女帝の側には家族たちや付き人たちが多く集まりました。

宮殿の床で滑ってしまい転んだモーツァルトに手を差し伸べた相手は、のちにマリー・アントワネットとなる7歳の皇女マリア・アントーニアでした。この時にモーツァルトは「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる。」と彼女に告げたとのことです。

ゲーテも神童の演奏を聴く

こうした中でも音楽の才能を発揮し続け、7歳のときにはフランクフルトでの演奏をゲーテ(1749~1832)が聴き、そのレベルを後に絵画のラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶものと回想しています。ゲーテはやはり素晴らしい耳を持っていたのですね。

ゲーテにこういわせるのですから、本当に「神童」だったのわけです。ゲーテは音楽に対しても、造詣が深かった人ですから、モーツァルトの才能を瞬時に見抜いたのですね。お互い素晴らしいです。後の話になりますが、ゲーテはベートーヴェンとも話仲間になります。

神童でも勉強の日々

幼少期のモーツァルトは各地を回り、その頃は「神童」の名はどこへいっても伝わっていました。早熟の天才であったモーツァルトは更なる旅を続けます。1769年(13歳)から1771年にかけては父と共にイタリアのミラノ、ボローニャ、ローマを巡回しました。

バチカン・システィーナ礼拝堂でグレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』を暗譜で書き記したとされ、ボローニャでは作曲者ジョバンニ・バッティスタ・マルティーニから音楽技術を習得し、また、ここで「対位法」や「ポリフォニー」を学びました。

どこに旅していても、自分に無い物は全て吸収!ですから尚更の事、音楽の才能がレベルアップされていったわけです。神童と言われながらも、その陰には地道な勉強が繰り返されていたということです。才能は磨かなければ、一瞬にして輝きをなくしてしまう事を知っていたのです。

作曲家モーツァルトの原点

作曲
話は前後しますが、モーツァルトは作曲を幼少時から行なっています。驚くことに、先にも書きましたが最初の作曲が5歳でした。何という子供だったのでしょうか。遊びの中で音楽を身に着けていったモーツァルトは、半ば父から強制されて音楽家になる宿命を背負っていたのです。

幼少時の音楽

最初の作品は5歳の時に作曲した『ピアノのためのメヌエット』です。聴いた事はありませんが、楽譜は残っていますから、聴く事は可能です。また、モーツァルト全集というCDにも入っていますので聴く事は出来ますが、この170枚組のCDを手に入れるのはそこそこ値が張ります。

5歳の子供が書いたということは本当に凄いのかどうかは私には判断しかねます。しかし、この楽曲がモーツァルトの作曲家としてのスタートです。まさしく、作品番号1なのです。そして9歳で初めての交響曲を書いた事は、これこそあっぱれと言ってあげたいです。

当時ハイドンによって完成された交響曲の形式に則って書いたからこそ、交響曲と呼ばれる訳で、その歳でそのスタイルを作曲した事はやはりそれだけで素晴らしい事だと思います。でも、現在のコンサートで全く演奏されませんから、はっきり言って駄作なんだと思います。

旅の間も作曲

なかなか良いスポンサーに恵まれず、いつ終わるとも知れぬ、旅の連続でしたが、その間も作曲は続けていました。その地の風景や雰囲気を取り入れたり、ハイドンや他の当時の名作曲家たちに会ったりと、音楽の勉強も忘れませんでした。この辺が天才たる所以なのですね。

旅の途中でも優れた作品を残しています。かなりのハードスケジュールで、疲れていたと思いますが、頭からスラスラと音符たちが降りてきて、容易に作曲できたようです。スラスラと音符たちが下りてくるなどという表現は普通の人は使えない言葉です。彼だから出来た事です。

モーツァルトの青年期

モーツァルトの青年期

16歳頃からのモーツァルトを見ていきましょう。ザルツブルク宮廷音楽家として活躍する一方、この頃でもまだ旅をして良い就職先を見つける事も行っていました。ザルツブルクを治める大司教とはそりが合わず、早くザルツブルクを去りたかったためです。

ザルツブルク宮廷音楽家として活躍

1773年(16歳)で『交響曲第25番』作曲。1776年大司教からの命により、ザルツブルク宮廷音楽家として活躍。1776年(20歳)『セレナーデ第6番「ノットゥルナ」』『セレナーデ第7番「ハフナー」』作曲。現在でも頻繁にコンサートで演奏される楽曲が次々と作曲されます。

ザルツブルクの大司教とは仲が悪く、宮廷音楽家をなかなか辞めさせてもらえず、大司教の意向を無視して、旅に出かけて大事な行事を行わなかったりと、ますますその関係はこじれて行きます。大司教と会う度に辞任を要求しますが、拒否される事の繰り返しでした。

この時期のモーツァルトも相変わらず旅の日々でした。なかなかスポンサーは見つからず、演奏会で稼げるお金も望む通りではありませんでした。けれども、音楽的には得る物が多くあったようです。1777年、21歳になったモーツァルトはザルツブルクでの仕事をようやく辞めます。

旅先での出来後

1778年(22歳)『交響曲第31番ニ長調「パリ」』『フルートとハープの為の協奏曲』を作曲。しかし、同年、旅先(パリ)で母マリア・アンナが死亡してしまいます。モーツァルトにとって最愛の母を亡くし、悲しい年となりました。しかし、この時期名曲が続々と作曲されます。

ドイツのマンハイムへ向かったモーツァルトはここでも音楽的に大きな影響を受け、正確な演奏や「マンハイム楽派」の影響を受けます。この後1778年2月にパリへ向かうことになったモーツァルトは3月から9月までパリに滞在することとなりますが、この間は散々の結果だったようです。

旅から戻ったモーツァルトは、ザルツブルク大司教から宮廷音楽家に再任されます。せっかく辞めた職に、改めて大司教から努めるよう依頼されたモーツァルト。当然、拒否など出来ない身分でしたから、いつまで経っても自分を離してくれない大司教にいら立つばかりでした。
 

大司教と決別、ウィーン定住

1779年(23歳)、『戴冠式ミサ』『セレナーデ第9番「ポストホルン」』を作曲。1781年、歌劇『イドメネオ』をミュンヘン宮廷歌劇場で初演。現代でも人気のある楽曲を次々に発表します。まさに天才モーツァルト、本領発揮の時期となりました。

1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命令でウィーンへ移りますが、5月9日、大司教と衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意します。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てます。

モーツァルトが本当の意味での作曲家になったのは、ザルツブルクの大司教と喧嘩別れして、ウィーンに定住してからです。縛り付けられていた父と大司教から離れ、一切の束縛から解放された彼は音楽だけに邁進します。この時期をもってして彼の旅の生活が終わったのです。

モーツァルトの結婚

モーツァルトの結婚
一度振られたモーツァルトでしたが、その傷もいえぬ間に、別の人物と結婚してしまいます。この変わり身の早さがモーツァルトらしいといえば聞こえが良いのですが、何も考えていなかったというのが真実に近いと思います。父や姉は大反対しますが、別れる事はありませんでした。

押し付けられた結婚

1782年、26歳のモーツァルトはコンスタンツェ・ウェーバーと結婚しました。この話もエピソードが残っています。コンスタンツェはモーツァルトが22歳の時に失恋をしたアロイジアの妹です。どうも売れ残っていたコンスタンツェをウェーバー夫人が押し付けたようです。

モーツァルトはそれに断りきれず、コンスタンツェと結婚してしまったと言われていますが、果たして真相はどうだったのでしょうか?どうも、これは本当だったようですね。なぜ、売れ残っていたかをもっと詮索していれば、モーツァルトの人生も大きく変わっていた事でしょう。

父、姉は猛反対

この結婚に対して、父レオポルトと姉ナンネルは共に大反対しました。ウィーンで1人暮らしすることにも大反対だったのに、ましてや自分が知らない人物と結婚するとは何事かとの手紙が残っています。家族とすれば、生活費も満足に稼げないのですから反対するに決まっています。

父、姉としては職が決まらない(パトロンが決まらない)モーツァルトの事を心配する気持ちが良く分かります。結婚した事は最初、父には伝えなかったようです。非常に厳格な父でしたから、モーツァルトにとってはよっぽど父が怖かったのだと思います。

でも、モーツァルトにとっては結婚が嬉しかったようです。押し付けられた結婚だったとしても、彼にとっては幸せなことだったようです。母も亡くし、旅から旅を続けていたモーツァルトが1人になって初めて得られた充実感だったようです。モーツァルトの気持ちもわかる気がします。

湧き上がる才能

モーツァルトの才能
先に述べたように、25歳のモーツァルトはウィーンで独立し、作曲家として本格的にスタートしました。パトロンが付かず、苦しい立場での独立でした。フリーランスと言えば聞こえがいいですが、要は無職と同じことですので、妻や子供を養っていくには苦労したようです。

貧しさからの出発

25歳にウィーンで独立し、26歳でコンスタンツェと結婚してからは、頼まれればどんな楽曲でも書き、どんな演奏会へも出かけて、働き続けました。それ以外に収入を得る事が出来なかったからです。この時期はまだ売れっ子の作曲家ではありませんでしたから。

それでも、収入が少ないうえに妻のコンスタンツェがお金にだらしがなかったため、家はいつも貧しく、何日も、水とパンだけで過ごすことも少なくありませんでした。当時のモーツァルトは、生活の苦しさと闘いながら、五線紙に向かい作曲を続けていました。

作曲数の凄さ

そんな貧しい中でもモーツァルトは数々の名曲を書き上げて行きます。25歳で独立し、作曲家としてスタートしてから30歳まで、実に150曲もの楽曲を作曲しています。才能が開花し、作曲と演奏会の連続だったようです。正に湧き上がる才能が実を結んだ証拠でした。

まさに神業です。並行して何曲も作曲していたのでしょう。モーツァルトの楽譜を見ると、本当に綺麗で、変更の跡がどこにもありません。まるで、音符が降ってくるのを写譜するような感じだったと考えられます。また、この時期からの作品は皆が目を見張るような物が多くなってきます。

「神童」から「天才」へ

30歳前後からの彼の作品はまるで神が乗り移ったような名曲ばかりになってきます。「神童」から「天才」への華麗なる変身です。でも、その当時のモーツァルトを天才と認識していた人たちは少数派でした。フリーで演奏活動をしているような身分だからという事もあったでしょう。

貧しいながらも、彼は作曲に力を入れます。1785年(29歳)には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈しました(「ハイドン・セット」)。この年、久しぶりに父と再会しますが、この再開が最後となりました。この後、父は帰らぬ人となってしまうからです。

そして「神の領域」に

神の領域
「神童」のままで終わってしまう人が多い中、モーツァルトは「天才」を超えて「神の領域」に手が届くまでに達してしまいます。「天才」モーツァルトはこう言っています。「私ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいない。」

「天才」と呼ばれた人物でも、努力なしではこれだけの存在にはならないという彼の言葉は、重いものがありますね。1785年(29歳)、この年『フィガロの結婚』の作曲を始めます。翌年完成し、ブルグ劇場で初演されます。その翌年プラハで初演し、大成功を納めます。

これが大ヒットとなり、作曲家の地位も不動の物となります。1787年(31歳)、『ドン・ジョバンニ』初演。この年、父が亡くなります。頭を抑えられていた父でしたが、やはり相当ショックだった様です。モーツァルト家に残った家族は姉のナンネルだけとなってしまいました。

1788年(32歳)、三大交響曲(第39番、第40番、第41番)が完成します。1789年(33歳)『コシ・ファン・トゥッテ』作曲。翌年ウィーンで初演。230年経った今でも、毎日どこかのコンサートホール、または、オペラ座で上演されている人気のある楽曲ばかりです。

モーツァルトの晩年

モーツァルトの晩年
モーツァルトは元々健康な身体ではありませんでした。演奏旅行先でも様々な病気にかかっています。晩年と言っていますが、まだ30代です。まだまだ、未来への希望など多くあった筈です。30代半ばですから、当然、仲間と酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしたりしていました。

絶えない借金

モーツァルトは音楽家(特にピアニストとして)として成功し、多くの収入を得ていましたが、ギャンブルにのめり込むようになります。周囲への借金依頼も頻繁になってきます。借金を依頼する手紙が今でも数多く残されています。今度こそ返すからまた援助して的な内容が多くあります。

そこへ輪をかけて奥さんの放蕩三昧ですから、お金がいくらあっても足りませんでした。この辺がコンスタンツェが三大悪妻といわれる所以です。家事など一切せず、今日はあそこの舞踏会、明日からは温泉治療に1ヶ月といった具合にやりたい放題だったようです。

そもそも妻コンスタンツェは、夫の仕事を全く理解していませんでした。ピアノの演奏会や作曲した楽曲を出版すればどのぐらい収入が得られるのか、などの事に対して一切知りませんでした。先月も大丈夫だったのだから、今月も大丈夫よねぐらいの感覚でした。

天才モーツァルトの死

1791年1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番を作曲します。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなりました。この時期、彼は無理をしながら作曲を続けていました。お金のために仕方なく片っ端から仕事を取ってきていました。

同年9月、ジングシュピール『魔笛』を作曲、初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていましたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していました。体調は11月から悪化し、『レクイエム』の作曲に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏します。

その2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去しました。わずか35歳の短い生涯でした。35年の生涯に作曲した曲は700曲以上です。番号が付いている物だけで626曲。626曲目の『レクイエム』は未完に終わり、弟子のジュスマイヤーに後を託し、彼が完成させたものです。

葬儀

モーツァルトの葬儀は彼がなくなった翌日に行なわれました。雪が舞う寒い日の葬式には、わずかな人しか集まりませんでした。悪天候の中、集まっていた人たちは一人去り、二人去りといった具合に、最後には妻のコンスタンツェさえ共同墓地に付いて行きませんでした。

そして、亡骸は貧しかった人達ばかりが葬られている共同墓地に投げ捨てるようにして埋められ、やがて、その場所さえわからなくなってしまいました。現在でもモーツァルトがどこに眠っているのか、分かっていません。「天才」モーツァルトとしてはあまりにも可哀そうな結果です。

モーツァルトの子供、妻のその後

モーツァルト夫妻は6人の子供を作りましたが、2人しか成人しませんでした。その2人も子供を残さなかったため、モーツァルト直系の子孫は途絶えました。また、モーツァルトの姉ナンネルも結婚して子供を授かりましたが、成人したのは1人だけでした。

途切れた血筋

コンスタンツェとの間に4男2女をもうけましたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡しています。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗りました。けれども、父のように活躍できませんでした。

フランツは、結局、学校のピアノ教師で終わってしまいます。モーツァルトの後を受け継ぐのはあまりにも「荷が重すぎた」のでしょうね。成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいません。音楽の才能溢れたDNAも消えてしまった訳です。

姉ナンネルにも男の子が1人成人しましたが、三代後の代で途切れてしまいます。姉の子孫も血筋が途切れて、本当にモーツァルト家の血筋はこの世からいなくなってしまいました。音楽的に優れた一家だったのに残念です。バッハのように一家全体が音楽家に成れたかもしれなかったのに。

妻コンスタンツェ

2人の子供の養育とモーツァルトが残した負債のため(彼女の為に出来た負債もかなりあった筈)、彼が亡くなった後は相当苦労したようです。彼女はモーツァルトが亡くなった10年後、再婚してしまいます。当時はそういったしきたりが残っている時代ですから非難は出来ません。

謎の死因

モーツァルトの死因
学生時代に誰もがその名を聞くモーツァルト。彼の死因に関しては、クラシック界でも謎に包まれたブラックボックスでもあります。1980年代には彼が毒殺された可能性を示唆する映画「アマデウス」が上映され話題となりました。

死因説その1【食中毒】

2001年にアメリカの学者がモーツァルトの新たな死因説を発表しました。モーツァルトはポークカツレツに火をしっかりと通さないまま食べて死んだという説です。当時のヨーロッパでは豚肉の寄生虫による病気が流行っていました。その寄生虫に感染したというのです。

死因説その2【風邪】

2009年に出た新しい説は、「風邪で死んだ」という説です。当時は風邪をひくと血を抜く習慣がありました。その時に血を抜きすぎて死んだのではないかというのです。死因説は毒殺説など様々言われていますが、こればかりはもう確かめようが無いので謎に満ち溢れています。

死後に高まった名声

モーツァルトの死後
モーツァルトの作品はその後しばらく、注目されることはありませんでした。その凄さがヨーロッパ全域に広まるのは彼の没後数十年も経ってのことです。モーツァルトの作品を受け入れてくれた都市はプラハだけでした。ここのオペラ劇場は彼にとっては天国のような場所だったのでしょう。

生前から人気のあったプラハでは1820年にも30周忌記念演奏会が行われていて、モーツァルトの弟子だったフンメルが、交響曲や協奏曲を小編成用にアレンジして演奏したという記録が残っています。ショパンはモーツァルトが大好きでした。リストもオペラからの編曲を残しています。

ドイツ文芸界のゲーテはモーツアルトの『魔笛』が大好きで、自身が主宰する劇場で繰り返し何十回も上演、「モーツアルトの音楽はどうにも説明のつかない奇跡だ。悪魔は時には極めて魅惑に満ちた才能を人間の姿でこの世に送りだす。それがモーツアルトだ」と評したといいます。

モーツァルトの主な作品

モーツァルトの楽曲は作品番号(ケッヘル番号)が振られている物で626曲あります。その中でも人気のある楽曲又は名曲と呼ばれる楽曲を載せておきます。交響曲だけでなく室内楽にも優れた楽曲があります。弦楽四重奏曲やクラリネット五重奏曲など、ぜひ聴いて欲しい楽曲です。

交響曲

交響曲

  • 交響曲第25番(1773)
  • 交響曲第31番『パリ』(1778)
  • 交響曲第35番『ハフナー』(1782)
  • 交響曲第38番『プラハ』(1786)
  • 交響曲第39番(1788)
  • 交響曲第40番(1788)
  • 交響曲第41番(1788)

管弦楽曲

セレナード

  • セレナード第7番『ハフナー』(1776)
  • セレナード第8番『ノットゥルノ』(1776-77)
  • セレナード第9番『ポスト・ホルン』(1779)
  • セレナード第10番『グラン・パルティータ』(1781/83-84?)
  • セレナード第11番(1781)
  • セレナード第12番『ナハトムジーク』(1782-83)
  • セレナード第13番『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(1787)

ディヴェルティメント

  • ディヴェルティメントk.136(1772)
  • ディヴェルティメントk.137(1772)
  • ディヴェルティメントk.138(1772)
  • ディヴェルティメント第17番(1779)

ドイツ舞曲

  • 6つのドイツ舞曲k.509(1787)
  • 12のドイツ舞曲k.586(1789)
  • 6つのドイツ舞曲k.600(1791)
  • 3つのドイツ舞曲k.605(1791)

協奏曲

協奏交響曲、および複数種のソロによる協奏曲

  • フルートとハープのための協奏曲(1778)
  • ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲(1779)

ピアノ協奏曲

  • ピアノ協奏曲第20番(1785)
  • ピアノ協奏曲第21番(1785)
  • ピアノ協奏曲第22番(1785)
  • ピアノ協奏曲第23番(1786)
  • ピアノ協奏曲第24番(1786)
  • ピアノ協奏曲第25番(1786)
  • ピアノ協奏曲第26番『戴冠式』(1788)
  • ピアノ協奏曲第27番(1791)

ヴァイオリン協奏曲

  • ヴァイオリン協奏曲第1番(1775)
  • ヴァイオリン協奏曲第2番(1775)
  • ヴァイオリン協奏曲第3番(1775)
  • ヴァイオリン協奏曲第4番(1775)
  • ヴァイオリン協奏曲第5番『トルコ風』(1775)

その他のための協奏曲

  • ファゴット協奏曲(1774)
  • フルート協奏曲第1番(1778)
  • フルート協奏曲第2番(1778)
  • オーボエ協奏曲(1778)
  • ホルン協奏曲第2番(1783)
  • ホルン協奏曲第3番(1783)
  • ホルン協奏曲第4番(1786)
  • クラリネット協奏曲(1791)

室内楽曲

弦楽五重奏曲

  • 弦楽五重奏曲第1番(1773)
  • 弦楽五重奏曲第2番(1778)
  • 弦楽五重奏曲第3番(1787)
  • 弦楽五重奏曲第4番(1787)
  • 弦楽五重奏曲第5番(1790)
  • 弦楽五重奏曲第6番(1791)

弦楽四重奏曲

  • 弦楽四重奏曲第14番『春』(1782)
  • 弦楽四重奏曲第15番(1783)
  • 弦楽四重奏曲第16番(1783)
  • 弦楽四重奏曲第17番『狩』(1784)
  • 弦楽四重奏曲第18番(1785)
  • 弦楽四重奏曲第19番『不協和音』(1785)
  • 弦楽四重奏曲第20番『ホフマイスター』(1786)
  • 弦楽四重奏曲第21番(1789)
  • 弦楽四重奏曲第22番(1790)
  • 弦楽四重奏曲第23番(1790)

ピアノが入った室内楽曲

  • ピアノ三重奏曲第1番(1776)
  • ピアノ三重奏曲第2番・未完
  • ピアノ三重奏曲第3番(1786)
  • ピアノ三重奏曲第4番(1786)
  • ピアノ三重奏曲第5番(1788)
  • ピアノ三重奏曲第6番(1788)
  • ピアノ三重奏曲第7番(1788)

管楽器が入った室内楽曲

  • オーボエ五重奏曲(1782)
  • ホルン五重奏曲(1782)
  • クラリネット五重奏曲(1789)

ピアノとヴァイオリンのためのソナタ

  • ヴァイオリンソナタ第34番(1779)
  • ヴァイオリンソナタ第35番(1781)
  • ヴァイオリンソナタ第40番(1784)
  • ヴァイオリンソナタ第41番(1785)
  • ヴァイオリンソナタ第42番(1787)
  • ヴァイオリンソナタ第43番(1788)

器楽曲

ピアノソナタ

  • ピアノソナタ第8番(1778)
  • ピアノソナタ第9番(1777)
  • ピアノソナタ第10番(1783)
  • ピアノソナタ第11番『トルコ行進曲付き』(1783)
  • ピアノソナタ第12番(1783)
  • ピアノソナタ第13番(1783)
  • ピアノソナタ第14番(1784)
  • ピアノソナタ第15番(1788)
  • ピアノソナタ第16番(1788)
  • ピアノソナタ第17番(1789)
  • ピアノソナタ第18番(1789)
  • 2台のピアノのためのソナタ(1781)

ピアノのための変奏曲

  • きらきら星変奏曲(1778)
  • (注)正式名:フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲

歌劇

歌劇

  • 『イドメネオ』(1780-81)
  • 『後宮からの誘拐』(1781-82)
  • 『劇場支配人』(1786)
  • 『フィガロの結婚』(1785-86)
  • 『ドン・ジョヴァンニ』(1787)
  • 『コジ・ファン・トゥッテ』(1789-90)
  • 『魔笛』(1791)

声楽作品

ミサ曲

  • 戴冠ミサ(1779)
  • レクイエム(1791・未完)

合唱音楽・モテット

  • 『アヴェ・ヴェルム・コルプス』(1791)

まとめ

確かにモーツァルトは「神童」であり「天才」でもありました。しかしそれは、神様によって授けられただけのものではなく、彼の人並み以上の努力があったればこそ、「天才」への道が開かれたのです。音符が振ってきて、五線譜に移し替えるだけではありませんでした。

彼が作曲した700曲以上の楽曲は玉石混淆です。しかし、モーツァルトの最後の5年間の作品は本当に「天才」のなせる業としか形容できません。

『フィガロの結婚』から始まる傑作の数々は「天才」にしか書けない作品群です。我々はその音楽を聴くことが出来ます。大事にその傑作の数々に耳を傾けましょう。

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