クラシック作曲家は普通の人の感覚とは少し違っていて、変人扱いされる人物も多くいました。ベートーヴェンやサティなどはその代表格ですが、そんな彼らも後世にまで残るような金言を言っているのです。
どれだけの説得力があるかは受け取り手がどう取るかにかかってきますが、変人という色眼鏡を外してみると、妙に納得させられるものも多くあります。
作曲家として人々に感動を与えた人物たちは言葉でも一味違った事を残しているのです。そんな作曲家の名言の数々を見ていく事にしましょう。
J.S.バッハ
- 音楽は世界語であり、翻訳の必要がない。そこにおいては、魂が魂に話し掛けている。
- 音楽は精神の中から、日常の生活の塵埃を除去する。
バッハはとても勤勉な作曲家でした。他人の模範となるような生き方をした人物です。決して変人の仲間ではありません。作曲家の中でも優等生のバッハですから、その言葉にも重みがあります。
①②共に音楽の本質をついた言葉です。音楽が人間にとって必要な訳を端的に言い当てていると同時に、音楽自体の持つ特別な力の事も表しています。
特に②は「精神」の中から、「塵埃」を取り除くものが「音楽」であり、だからこそ必要不可欠なものであって、作曲家はそれに相応しい音楽を作らなくてはならない事までも示唆していると思われるのです。
モーツァルト
- 多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけをすることだ。
- 望みを持とう。でも望みは多すぎてはいけない。
モーツァルトは変人の代表挌に当たる人物ですが、たまには良い事も言っています。この二つの格言はどのようなときに語られた(書かれた)ものなのかは分かりませんが、どちらも的を得たものです。
二つとも何も解説の必要もないほど簡単な事を言っています。しかし、人間として大事な事です。何かを成すための人生訓となっています。
モーツァルトは多くの方が知るように、音楽的には後世まで残る名作を数多く残しました。
しかし、人間的には欲求を抑えきれずに、先も考えずにその日暮らしをしていた人物ですから、それを思うと人生訓を語る前に自分の事をなんとかしなさいと言いたい気持ちになるのは私だけではないでしょう。
ベートーヴェン
- 多くの人々に幸せや喜びを与えること以上に、崇高で素晴らしいものはない。
- 苦しみを通じて喜びへ。
ベートーヴェンは耳の疾病があったため、運命と戦うような多くの言葉を残しています。神はなぜにこんなに才能がある人物に対して、最も大切な音を奪い去ったのでしょうか。
①は音楽を作曲する理由、自分が行っている創作は崇高な仕事なのだという自負が感じられます。
②は良く知られた言葉です。歓喜と訳す場合も多くあります。これは普遍的な言葉ですが、ベートーヴェンが言うと重みが違ってきます。
誰しもがベートーヴェンが聴力を失った事を知っているから、ベートーヴェンの苦しみを理解できますし、それを乗り越えて名作を作り上げた事も知っています。『第9』にも通じますね。
ショパン
- 手首は、ピアニストにとっての弓である。
- 彼は何千人もの人に聴かせるように弾くが、私はただ一人の人に聴かせるために弾く。
ショパンは生涯ピアノのための音楽を追い求めた作曲家です。ピアニストとしての心構えのような二つを選んでみました。
①はまさにピアニストにとっての手首は、弦楽器奏者の弓と同じであり、弓の運びにように手首を使わないと良い音は望めないというところでしょうか。ショパンらしい表現です。
②もショパンの哲学が現れています。客席にどれだけの聴衆がいようとも、ひとりの人に感動を与える事が大切であり、その集合体として全体が満足してくれるものという事を言いたいのだと思います。
音楽は人に聴いて貰って始めて価値が生まれるものです。ピアニストとしての在り方を教えてくれるショパンの名言でした。
マーラー
- 伝統とは火を守ることであり、灰を崇拝することではない。
- 伝統とは怠惰のことだ。
マーラーが言っている伝統についての二つの名言を紹介します。この二つは同じような事を言いたかったのだと思うのです。
先人たちが作り上げて来た伝統に単に胡坐をかいているだけでは、全く進歩しないという事が言いたかったのではないでしょうか。
「灰を崇拝すること」と「怠惰のこと」とは同じ意味で、過去のものをありがたがっているだけでは全く意味がない事を言っているのでしょう。
先人たちの灯してくれた火を次の世代まで引き継いで行く事が重要であり、それには新たな創造などが加えられ、生まれ変わりながら伝わっていく事が大事であり、重要だと言っているのだと思います。
シベリウス
- 批評家の言うことなどに耳を傾けてはいけない。これまでに批評家の銅像など建てられたためしはないのだから。
- 現代作曲家が色も味もとりどりのカクテルを調合しているとき、私は澄んだ冷たい水をお客に差し出す。
シベリウスは言い得て妙な名言を残しています。①は読んだ通り。批評家の銅像というセンテンスが彼一流のセンスの良さを醸し出しています。「言いたい奴には言わせておきなさい」的な所が秀逸です。
②も現代作曲家をからかい半分で批判しているもの。「澄んだ冷たい水」がどれだけ美味しいか、客が何を欲しているのかを知らないといけないよという皮肉も込めて言っています。
シベリウスの人間性が出ていて面白いですね。オブラートに包まず、こうもすんなりと言ってくれた方が後味が良いものです。
ドビュッシー
- 音楽から科学的なものを取り除かなければならない。
- 言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる。
両方の名言ともにドビュッシーの音楽観が見て取れます。音楽は科学的に数式では解決できないものなのだという事、自然に音楽に親しみなさいという戒めも入っているのかもしれません。
②は音楽は言葉以上のものを伝えられる事を言っています。言語を使わなくても、音楽が人間の五感に訴えられる事を伝えたいのでしょう。
だから、音楽の存在価値があるのだと言いたいのです。音楽にしかできない大切さをもっと考えてみましょう。
チャイコフスキー
- インスピレーションは、怠けている者のもとには、決してやってこないものである。
- 過去を悔やむ。未来に希望を持つ。そして現在に決して満足しない。
作曲家としての心得といったところでしょうか。しかし、これらは作曲家だけではなく、もっと普遍的な言葉です。
怠けた者や現状に満足してしまっている人間には、その先の進歩はない事を教えてくれます。
作曲家のように絶えず新しい音楽を求められる立場の場合は死活問題となり得る話ですが、一般人の我々も立場の違いはあれ、学ばねばならない事柄です。
ストラヴィンスキー
- ヴィヴァルディは500曲の協奏曲を書いたのではない。同じ協奏曲を500回書いたのだ
- 偉大な作曲家は、人の真似などしない。彼らはそれらを吸収し、自分のものにしてしまう。
ストラヴィンスキーの①の言葉はとても辛辣です。ヴィヴァルディを揶揄している言葉ですが、同じ表現を使いまわししていたバロック期の作曲家に対して進歩がないと言いたかったのでしょう。
次の言葉は作曲家として含蓄のある言葉です。たとえ他人の音楽を使ったにせよ、一流と言われる作曲家によるものはもはや全く別のものに生まれ変わるものであって、オリジナリティが生まれてくる事を言っています。
逆に、一流ではない作曲家にかかると表現が借り物になってしまい、独自性などなくなってしまうと言いたかったのでしょう。独自の音楽を生み出した作曲家の言葉には説得力があります。
まとめ
作曲家の名言を見てきました。それぞれが音楽史に名を遺す人物の言葉ですから、それ相応の重さがあると思います。
音楽についての言葉にしても、読み替えると日常生活のためになるものもあるものです。音楽家たちも意外といい事を言っています。
人生についてなどと大げさに考えないで、もっと気軽にこういう名言もあるのだなと思っていただければ充分です。