作曲家ショパンの名前は誰でも聞いたことがあると思いますが、実際どんな人だったのか、どんな曲を書いたのか、という質問に答えられる人は案外少ないのではないかと思います。

学校の音楽の授業で「ピアノの詩人」と教わった事があると思い出す人もいるでしょう。「ピアノの詩人」って言うぐらいですから、ピアノの達人だったというイメージは伝わってきます。

ショパンは短命でした。その華々しかった時期もほんの僅かでした。祖国の敗戦に苦しみ、健康問題で悩み、恋愛でも上手くいきませんでした。ピアノに魅せられピアノ曲しか作曲しなかったショパンの生涯をみていきます。

「ピアノの詩人」とは素敵な名前を付けましたね!
ショパンはまさにピアノ音楽だけに生きた作曲家だったのだよ!

ショパンの生い立ち

ショパンは、子供の頃からその天才振りを発揮していたようです。ショパンがどこで生まれ、どんな幼少期を過ごしたかを述べていきます。

ショパンの幼少期

フレデリック・ショパンは1810年にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれました。しかし彼の出生日には2月22日と3月1日の2つの情報があり、どちらが確かなのかはっきりしません。

ショパンの父親は1787年に16歳でフランスのロレーヌからポーランドに移住してきたフランス人でした。しかし、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」といって憚らなかったようです。

ショパンは3歳上の姉と1歳年下の妹、そして2歳年下の妹という女性の中で育ちました。ショパンの繊細さなどはこの事が影響しているのかもしれません。残念ながら、一番下の妹は14歳で病死しました。ショパンとは一番の仲良しだったといいます。

1810年10月、ショパンが7ヶ月の時、一家はワルシャワに移住します。ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていました。父はフルートとヴァイオリンを母はピアノの演奏が上手く、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができました。

ショパンの神童ぶり

ショパンはピアノを母と姉から教わりました。母のピアノを聴いて感極まって泣いてしまったという逸話もあります。

ショパンが本格的にピアノを習ったのはチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィです。ショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまいました。

ショパンは、ワルシャワ音楽院の院長であるジヴァヌィにもピアノを教わります。ショパンは8歳で初めて曲を書き、10歳ごろからは作曲に強く関心を示すようになりました。

14歳の時にはポーランドを代表するピアニストとして知られることとなります。音楽の才能豊かなショパンでしたが、父は特別扱いせずに普通の学校に通わせました。

ショパンはやはり神童だったのですね!
幼い時から才能豊かな子供だった。音楽史に輝く天才たちは誰もが神童と謳われているのだ!

学生時代のショパン

ショパンは1823年ワルシャワ音楽院に通い始めます。そして1826年からエルスネルに付いて音楽理論・通奏低音・作曲の勉強を開始しました。

エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記しています。エルスネルはショパンに対しては単に見守る事しかしなかったようです。天才は自ずと才能が開花するのですね。

学校でオーケストレーションを学び、『ドン・ジョヴァンニの〈お手をどうぞ〉による変奏曲』変ロ長調という管弦楽つきの作品も作曲しました。これを見たシューマンが、「諸君、天才だ。帽子をとりたまえ。」という有名な言葉を残しています。

通知表に「音楽の天才」と書かれるなんて凄い!
シューマンの「諸君、天才だ。帽子をとりたまえ」という言葉も素晴らしい。本当に才能があったのだね!

ショパンの青年期

ショパンは既に完成された芸術家であり、世の期待も大きかったに違いありません。そんなショパンはついに今後の栄光を手に入れるためウィーンへ旅立ちます。

ベルリンへの旅とウィーンデビュー

ショパンは18歳のときにベルリン、19歳のときにウィーンへ演奏旅行に出かけています。ワルシャワでの正式なデビューは1830年3月に行われました。

ベルリンでは数々のオペラや演奏会を聴き、メンデルゾーンなどと出会っています。ウィーンでは華々しくデビューし好評を得ました。

ウィーンでの成功とワルシャワでの華々しいデビューを飾ったショパンは、ウィーン、ミラノ、パリへの演奏に出かける計画を立て、1830年の11月2日、ウィーンに向かって親友ティテュスともに旅立ちました。

青年ショパンの旅立ち

ショパンは故郷ワルシャワを出てウィーンを目指しました。そして11月末日にはウィーンに到着します。到着してから一週間後に、ワルシャワでロシアに対する反乱が起きたという知らせを受け、ショパンは不安になります。

その後4ヶ月間はショパンは演奏会も開けず、考えていたイタリアに行くこともなく、結局翌年の7月まで何もできずにウィーンで過ごしています。

1831年7月にはショパンは何の成果もなかったウィーンを後にしパリへ向かいます。その旅の途中でショパンはワルシャワがロシアの攻撃を受けて陥落したという知らせを受け取りました。

この知らせにショパンは驚き、憤慨します。さらに故郷の家族や友人たちと連絡が取れなくなり、ショパンは絶望と孤独の内に陥いりました。

元々繊細で女性的なショパンは、ただでさえ故郷を離れうつ状態にあり、さらにウィーンで何の成果もなかったことに落ち込んでいました。そこに追い討ちをかけるように悲劇的な知らせを受けたショパンの心情は察するに余りあります。

ショパンのパリ時代

1831年9月末にショパンは当時最大の都市パリに到着しました。当時のフランスは革命後の混乱の中にありました。フランス革命で王政が廃止され、市民は権利、自由などを謳歌していました。

パリの生活

あらゆる自由や混沌が入り混じる激動のパリ。そうした気風の中、パリには多くの芸術家が集まっていました。

文学者ユゴー、バルザック、ラマルティーヌ、ゴーチエ、ミュッセ、サンド、シャトー・ブリヤン、詩人バイロン、画家ドラクロワ、音楽家ではリスト、ロッシーニ、ベルリオーズ、マイヤベーアなどがいました。

こういった最高の芸術家の中にショパンは仲間入りをします。ショパンのパリでの初演奏会は1832年2月26日でした。カルクブレンナーという当時ヨーロッパ随一のピアニストと知り合ったショパンは、カルクブレンナーの協力で演奏会を開くことになりました。この演奏会は大成功で、多くの注目を集めました。メンデルスゾーンもショパンの演奏に熱狂した一人でした。

またリストはショパンの演奏に対して「どんなに拍手を送っても足りない。彼はピアノ演奏において、詩的な情感に新たな境地を切り開いた」と述べています。ショパンはさらに2回目の演奏会を開きました。

ショパンはロッチルト家の男爵と知り合います。このロッチルト家はヨーロッパで名も財力もある名家でした。こうしてショパンの交際範囲は上流階級にまで広がっていきました。

健康状態も良好で、この幸福で平穏な日々は1837年頃まで続きます。パリでの生活は、ショパンの人生で最良の日々であったようです。

ショパンの恋愛と失恋

1835年の夏、ショパンは自分の両親とボヘミアで会っています。ショパン自身にも両親にも、とても喜ばしい出来事でした。3週間ほど一緒に過ごしました。これ以降ショパンは両親と会うことは二度とありませんでした。

両親と別れる際のショパンの落胆振りは容易に想像がつきます。帰路、ショパンはドレスデンに立ち寄りヴォンジスカ伯爵一家と会います。

この一家はショパンと知り合いでした。ショパンは数年ぶりに会ったヴォンジスカの娘マリア(16歳)に心を奪われてしまいます。かなり魅力的な女性だったのでしょう。マリアはピアノが上手かったようです。

ショパンは両親と別れた後で落ち込んでいました。そこへ、まるでショパンの心の傷を癒すようなタイミングでマリアと再会したのです。ショパンに恋心が芽生えるのは当然でした。

ショパンは9月末日にパリへ向けて出発しますが、別れ際にマリアに『変イ長調のワルツ』を贈っています。

1836年夏、ショパンはヴォンジスカ家の誘いを受けて、マリーエンバートという温泉地を訪れました。ショパンはマリアと夏を一緒に過ごしました。

そしてなんとショパンはマリアにプロポーズをし、マリアは承諾しました。しかし、マリアの家族が反対します。結局2人は結婚することはありませんでした。

2人の婚約が解消されたのは1837年。原因としては、ショパンの病気体質をヴォンジスカ伯爵夫人は見逃さなかった事と、さらにヴォンジスカ家は名門の貴族でショパンと釣り合う身分でなかった事です。

ショパンがマリアを愛していたのは間違いないありません。ショパンはこの失恋に傷つきました。それはこの時期に作曲された曲に影響しています。失意の中で彼はパリに戻ります。

パリのサロンのメンバーは凄いですね。ショパンもこの仲間入りをしたんだ!
あの気弱なショパンが良くすんなりとその中に入り込めたものだと驚いているよ!

ショパンとジョルジュ・サンド

パリの社交界にデビューしたショパンはこれからの自身の運命を変える女性、ジョルジュ・サンドと出会います。作家だった彼女は既婚者でしたが、お互い惹かれあうようになります。

サンドとの運命の出会い

ジョルジュ・サンドはフランスの女流作家で1804年に生まれ。つまりショパンより6歳年上でした。サンドがパリにやってきたのは1831年。彼女はパリに自由を求めて、多くの芸術家の中に飛び込んだのでした。サンドはやがてリストと親しくなります。

そして1836年の秋、リストらと過ごす夜会でショパンと出会います。ショパンはちょうどマリア・ヴォンジスカと婚約し、まだ破談になる前の時期でした。

サンドは葉巻を吸い、男物の外套と身にまとい、ズボンをはくという、当時の女性としてはかなり風変わりな人物でした。ショパンは「本当にあれが女か?」と言ったと伝えられています。しかし、この夜会以降ショパンとサンドは親しくなるのでした。

1837年にはショパンとマリアの婚約は解消されます。それはショパンにとっては辛いことでしたが、代わってショパンの心を占めるようになったのがサンドでした。

この時期に作曲された『スケルツォ第2番』は、悲劇的な部分と幸福な部分とが交互する傑作で、ショパンの心が鏡の如く反映されています。

1838年の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となったのでした。

マジョルカへの逃避行

1838年の秋、ショパンは療養のためにサンドとサンドの子供たち2人とマジョルカ島に行きます。マジョルカへの旅行と紹介している伝記もありますが、事実上の駆け落ちでした。

ところが療養のために行ったマジョルカで、ショパンはかえって体調を崩してしまいます。サンドはショパンを懸命に看護しました。ショパンもサンドもこのマジョルカ滞在で散々苦労をし、得るものはありませんでした。ショパンとサンドは半年ほど滞在した後、マジョルカを去ります。

ノアンでの生活

そしてイタリアへ行った後、1839年6月にノアンにあるサンドの城に着きます。ノアンに戻ったショパンの体調は回復し、これ以降、ショパンはサンドと訣別するまで、夏をノアンで過ごし多くの傑作を生み出します。

パリとノアンを行き来する生活はショパンにとっては体調に良かったようで、数々の作品を残しています。

ドラクロワとの親交

サンドと過ごす日々は、ショパンに大きな力を与えました。この時期に生み出された傑作は数知れずありました。しかし、そんな日々にも終止符が打たれます。

1842年の夏はドラクロワと親しくなります。ショパンとドラクロワは互いの芸術を尊敬し合うようになります。ドラクロワはモーツァルトを愛し、音楽に通じていました。またショパンの音楽のよき理解者でもありました。このドラクロワとの出会いはショパンに大きな影響を与えます。

1844年5月、ショパンの父ニコラスが世を去りました。ショパンはこの知らせに大変な衝撃を受けます。家族思いだったショパンの心に大きな傷を残しました。この時期から、彼の人生の歯車は狂い始めます。

ジョルジュ・サンドとの別れ

ショパンとサンドの最初の衝突は1845年の夏。これ以降サンドとショパンの亀裂は大きくなり1846年には、2人の仲はもはや修復不可能なものとなります。しかし、それでもショパンはサンドのことを忘れることはできませんでした。

ショパンは死ぬまでサンドの髪の束を自分の日記にはさんでいたといいます。サンドと別れたショパンは気力、体力共に衰弱し始めます。

1847年、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えました。

ショパンはサンドと出会って幸せだったのでしょうか。
難しい質問だね。男女の仲は他人からは分からないもの。サンドとの10年の間に数々の傑作を残しているところを見れば幸せだったともいえるし、気の強いサンドに振り回された面もあるし、何とも答えが出ないんだよ!

ショパンの晩年

サンドとも決別し、病に侵されたショパンの晩年はあまり恵まれたものであったとは言えません。また、この時期は作曲もほとんどされていません。

容態の悪化

パリに戻ってきたショパンは孤独な冬を過ごしました。1849年の夏、ショパンはシャイヨーに新たな居を構えます。ここは日当たりのいい場所でした。健康状態を考えたものだと思われます。

6月にはショパンは姉ルイーズに手紙を書きます。「できることならパリに来て欲しい」。ショパンは何よりも家族や故郷ワルシャワのことを考えていました。

姉ルイーズがやってきたのは8月に入ってからでした。この再会はショパンにとってはたとえようのない喜びでした。

ショパンは9月にはヴァンドーム広場の近くに引っ越します。すぐ近くにはマドレーヌ寺院があって、この家には多くの友人や同郷人が見舞いに訪れました。10月になるとショパンの容態はいよいよ悪化します。

ショパンの最期

10月17日、ショパンは姉や友人達に看取られつつ、ついに息を引き取りました。享年39歳。死因は肺結核といわれていますが、定かではありません。この才能豊かな人物を、神は余りにも早く天に召してしまいました。

死の一月前に引越しを行ったという事実から推測できることは、ショパン自身は自分が死ぬなんてまだ先のことだと思っていた可能性が考えられます。

ショパンの葬儀

ショパンの葬儀は10月30日にマドレーヌ寺院で行われました。モーツァルトの『レクイエム』、ショパンの『前奏曲』作品28の内、ホ短調とロ短調の2曲などが演奏されました。

ショパンの遺体はペール・ラシェーズに葬られました。しかし、ショパンの心臓はワルシャワに持ちかえられ、聖十字架教会に置かれました。

ショパンの葬儀にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。サンドだって行きたかったに違いありませんが、色々な所に気を遣ったのでしょうね。家でショパンを思い出しながら、涙を流していた事でしょう。

39歳で亡くなるなんて可哀想すぎます!
若い頃から虚弱体質だったからね。神様は心身共に疲れ切ったショパンに安息を与えたのだよ!

まとめ

こんなに繊細な作曲家を私は他に知りません。そしてピアノに特化した作曲家も彼だけです。本当に「ピアノの詩人」だったのです。ジョルジュ・サンドとの幸福な人生が続いていたらもっと違うショパンが見られた事でしょう。

ピアニストとして同時期にリストも活躍しました。性格が正反対の天才ピアニストが同時期に活躍したのも神様の悪戯でしょうか。どうあれ、ショパンの名曲は今後も聴き継がれて行く事でしょう。

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