作曲家リストを調べれば調べるほど、彼の魅力に魅せられてしまいます。男性である私自身がそう思うのですから、当時の女性にとっては掛け替えのない存在だった事でしょう。
スタイリッシュでセンスが良く、洒落ていて、イケメン、この要素が全て詰まっていたのですから、彼の周りにはいつも女性が集まっていました。浮名を流した女性は数多くいますが、中でも面白い関係だったのがふたりのマリーでした。
人のスキャンダルほど面白いものはありません。リストも、ふたりのマリーとスキャンダルを起こしています。リストのダメ男ぶりや男女間の複雑な関係などふたりのマリーを通して詳しく紹介したいと思います。
マリー・モーク(マリー・プレイエル)
ピアニストであったマリー・モークは恋多き女性だったようです。作曲家ベルリオーズとの婚約破棄などで有名になりますが、その後に結婚。結婚後すぐにリストと関係を持ちます。
マリー・モークの概要
1811年7月4日または9月4日~1875年3月30日。フランス、パリ生まれ。子供の頃からピアノを習い、8歳の時にはリサイタルを開いています。
1930年に作曲家ベルリオーズと恋に落ち、婚約しましたが、マリーの母親が反対し、婚約は破棄されました。翌年、ピアノ製造業社プレイエル社の2代目社長カミーユ・プレイエルと結婚。マリー・プレイエルとなります。
ショパンとも親交があり、『ノクターン第1番』作品9-1は彼女に献呈されています。プレイエルとは4年で離婚し、離婚後は元のピアニストに戻りました。また、ブリュッセル王立音楽院の教授にも就任しています。
女流ピアニストとしての才能はかなりのものがあったようです。
リストとマリー・モーク
リストと知り合ったのは、彼女が結婚してマリー・プレイエルとなってからです。いわゆる不倫の関係となりました。期間は短い間でしたが、逢引きしていた場所が問題なのです。
リストはショパンとサロンで知り合い、非常に親しくなります。そのために、ショパンの部屋の鍵をリストも持っているような間柄でした。
リストはなんとマリー・プレイエルと関係を持つ時に選んだ場所が、ショパンの部屋だったのです。リスト自身の部屋を使わなかった理由は周りにバレるかもしれないと思ったからなのでしょうか。
不倫が公になってからは、ショパンはリストに対して非常なる怒りをぶつけました。これ以降、リストとショパンは不仲になり、お互いを非難するような関係になってしまいます。
ショパンは全く関係がないのに場所の提供者となってしまい、端から見ると手を貸したとも受け取られる事態となり、頭に血が上るのも当然です。
リストはマリーの夫プレイエル氏とも親交があり、また、マリーがかつて婚約していたベルリオーズとも親交があったわけで、この辺の人間関係もその後のそれぞれの人生においても影響が合ったのだろうなと思います。
マリー・ダグー伯爵夫人
もうひとりのマリー、ダグー夫人との関係は間にジョルジュ・サンド(後のショパンの同棲相手)という女性も入り、この恋愛の相関関係は不思議なものになっています。
マリー・ダグー伯爵夫人概略
マリー・カトリーヌ・ソフィー・ド・フラヴィニー。1805年12月31日~1876年3月5日。貴族の娘でフランクフルトに生まれました。絶世の美女だったといわれています。
1827年にパリのダグー伯爵と結婚したため、マリー・ダグー伯爵夫人と呼ばれました。本名よりこちらの呼び方の方が有名です。ダグー伯爵はマリーより20歳も年上でした。結婚後パリの社交界に颯爽とデビュー、社交界の中心的存在となります。
伯爵との間には2児の娘をもうけましたが、ふたりの間はぎくしゃくして、尚且つ、その後リストとの関係もできたため、1835年に離婚しています。
離婚後リストと同棲し、別れた後はダニエル・ステルンというペンネームで作家として活躍しました。
リストとの出会い
マリー・ダグー伯爵夫人とリストとの出会いはサロンでの事かと想像できます。まだ、夫人が離婚する前の1832年末には知り合っていたようです。会った瞬間にふたりとも恋に落ちたといわれています。
リストと夫人が最初に会った時、リスト21歳、夫人27歳でした。この6歳という年齢差はふたりの間には何の障害にもなりませんでした。
1935年にふたりは駆け落ちしますが、それまでに交わした書簡は合わせて100通もあったようです。誰にも分からないように、リストは宛名を女性文字にしたり、読まれても分からないように、本文はドイツ語にしたりと苦心した跡が残っています。
リストとマリー・ダグーの書簡集として出版されています。有名人となるとこの手の手紙が没後公開されますから、世に名を残そうとしている方は慎重になさるべきかと忠告しておきます。
駆け落ち実行
その頃のリストとマリーのふたりの仲は、パリの社交界では誰もが知るところとなり、一大スキャンダルとなります。パリでは暮らせないと思ったふたりは逃避行せざるを得ませんでした。
1935年にスイスのジュネーブに駆け落ちします。リスト23歳、マリー29歳の時でした。駆け落ちまでの準備は用意周到で、ふたりの暮らしぶりは何も変わる事はありませんでした。
ふたりの同棲生活は1939年まで続き、1男2女をもうけます。この中のひとりコジマは後の指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻であり、その後作曲家ワーグナーの妻になった人物でした。
パリへの帰還
ほとぼりが冷めた時期にふたりはパリへ戻ります。マリー・ダグーは駆け落ちした年に夫と正式に離婚し、贅沢三昧をおくるだけの財産を持っていましたので、社交界へ復帰を遂げました。
子供まで作ったふたりでしたが、お互いに結婚まで考えていなかったといわれています。パリへ帰ってからは、同棲生活はおくっておらず、かといって、別れた訳でもない緩い関係でした。
不思議な三角関係
男装の麗人と謳われたジョルジュ・サンドもパリ社交界の華でした。リストとも、マリーとも面識があり、友人でもあったのです。サンドは後にショパンとの同棲をする有名な女性ですが、この当時は、ショパンとは親密な関係ではありませんでした。
パリに戻ったふたりはサンドともまた付き合いだします。ここからが、面白い事で、不思議な三角関係が始まるのです。
リストとサンドが関係を持ちます。モテ男リストですから、あっても不思議はないかなと思いますが、サンドは同性愛者でもありました。サンドとマリーはその関係になってしまいます。
男ひとりと女ふたりの三角関係に発展してしまいました。しかし、3人はとても仲が良く、一緒に旅行までしています。それも、お互いの関係は気付いていながら、平気な顔で付き合っていました。
ふたりの決別
リストとマリー・ダグーとの別れは、マリーの嫉妬によるものでした。何処へ行っても女性に囲まれるリスト、そして自分はリストの愛人としてしか認知されていない状況に、マリーは耐えきれなくなったのです。
結婚を望んでいなくても、リストは独占したいという女性の気持ちは分からないでもありません。リストが浮気をしているに違いないと思うようになったマリーは、ついに別れてしまいます。1844年の事でした。
その後のマリー・ダグー
リストと別れたマリー・ダグーは作家になります。ダニエル・ステルンというペンネームを用い、文壇デビューしました。
リストとの生活を題材にした『ネリダ』という小説も発表します。登場人物の名前こそ違っているものの、完全にリストとマリーの事だと分かる私小説でした。
まとめ
リストはふたりのマリーとの結婚を考えてはいませんでした。マリー・モークとは単なる火遊び、マリー・ダグーとは何で結婚を考えなかったのか理解に苦しみます。
ふたりのマリーはリストの女性遍歴の中でも有名な相手です。特にマリー・ダグーと過ごした期間はリストの人生にとっても重要な時期となっています。彼女と旅に出かけた地域の音楽は後に『巡礼の旅』として纏められています。
それにしてもリストの周りは常に女性が集っていたのですね。マリー・ダグーが嫉妬したぐらいですから、余程凄かったのでしょう。