ロッシーニの怠け者人生【ワーグナーが憧れたその生涯とは】

イタリアの作曲家ロッシーニは生涯39曲ものオペラを作曲しました。それも約20年間という間の話です。1年間に2曲のペースでオペラを作曲した事になります。

何という早書きの作曲家だったのでしょうか。かのベートーヴェンは9年も掛かって1曲のオペラを完成させたのに比べると、いたって簡単に作曲していたイメージがあります。

実際、ロッシーニは作曲の期間を定め、実践していました。そして、39曲のオペラを書いて、作曲家を44歳で引退してしまいます。ロッシーニの作曲方法や彼の怠け者の人生を見ていきましょう。

約20年間でオペラを39曲も作曲したのですか?
驚きの数字だね。そのあとさっさと引退してしまったのも驚かされる。まだ44歳の働き盛りなのに…。

ロッシーニ略歴

ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)は、1792年2月29日、北イタリアのペーザロという町で生まれます。モーツァルトが亡くなって3ヶ月経った時期でした。

8歳の時に、一家はボローニャに引っ越します。父は食肉処理場の管理人でしたが、ロッシーニが4歳の時に政治的理由で投獄され、歌手だった母が生計を支えていたといいます。

ロッシーニはそんな事情もあり、父が出獄するまでは祖母に預けられて育ちました。町のトランペット吹きとして有名だった父からは、トランペットを始め、チェロなども教わり、音楽的な知識を深めます。

その後、15歳でボローニャ音楽大学に入学。すぐに才能が開花し始めました。18歳では最初のオペラを作曲します。

18歳からオペラ作曲家となったロッシーニは、次から次へとオペラを作曲し、1816年、『セビリアの理髪師』が大評判になり、一躍音楽界での名声を得ました。

作曲家のみならず、彼はサン・カルロ劇場やパリのイタリア座の音楽監督としても活躍しています。指揮者としても有名でした。

何を考えたのか、ロッシーニは37歳で作曲した『ウィリアム・テル』を最後にオペラの筆を置くと発表します。そして、44歳で音楽界を引退するのでした。

その後、76歳で亡くなるまで32年間は美食を追求する生活を送ります。彼が亡くなったのは1868年11月13日で、美食を求めるあまり、肥満になった事から、様々な合併症が死因だったようです。

ロッシーニの生きざまを知ったワーグナーは彼のように生きたいと憧れていたといわれています。因みにワーグナーは借金で贅沢三昧の生活をしては夜逃げするという生涯を送った人間的に最低の人物でした。

ロッシーニの作曲方法

ロッシーニの作曲方法は独特のものでした。オペラ1曲に掛ける時間は6週間と決めたのです。最初の4週間はほとんど何もせず、期限が近付くと、まずは主題を考えます。

そして、毎日、アリアや二重唱を作曲していくというものでした。最後は一気に仕上げたようです。作曲家としての才能が優れていた故に出来た離れ業でした。

つまり、ロッシーニは怠け者で、日々音楽と葛藤していたわけではなく、土壇場になってアイデアが出てくるタイプだったのです。

ロッシーニの音楽の根底を支えていたものは、少年時代に先人たちの楽譜を写譜して勉強した事だったようです。

その当時はハイドンやモーツァルトの楽譜を写譜して、音楽の成り立ちについてしっかりと勉強していたのでした。この根底があった故の怠け者だったわけです。

ここまでは持ち上げましたが、彼は最低の事も平然としていたのです。締め切りに間に合わないと思うと自身の別の曲を使い回ししていました。もっと酷い時は、他人の曲から無断拝借して使っていたのです。

現在だったら、著作権の問題が出てくるところですが、当時はそんな法律もなく、倫理の問題でした。しかし、彼は何の抵抗もなく勝手に他人様の作品を拝借していたのです。

という事もあり、2、3週間もあれば問題なく作品が出来上がったのでした。怠け者というかずる賢いという言葉の方があっているかもしれません。

ロッシーニの日常は怠け者だったといわれています。
どんな形であれ、作品は完成し、聴衆が喜んだのだから、良しとしよう。

ロッシーニ、ベートーヴェンと会う?

ロッシーニはベートーヴェンを大変尊敬していました。ベートーヴェンの『英雄』を聴いてから大ファンとなったのです。

それに、音楽に対しての姿勢が自分とは全く違うタイプだった事にもよります。ベートーヴェンがしているような音楽の作り方は自分には出来ない事とも思っていました。

そんなロッシーニがベートーヴェンと面会出来る機会を得たのです。1822年、自身の作品がウィーンで上演される機会があり、3ヶ月ほどウィーンに出向いた事から、知人を通して面会を求めました。

ベートーヴェンの私設秘書であったシンドラーの日記には2度面会の要求があったが、どちらも断ったとの記入があります。シンドラーは嘘つきが服を着ているような人物でしたから、どこまで信用出来るかわかりません。

1855年になって作曲家フェルディナント・ヒラーが次のように記述しています。

「ウィーン滞在中、とロッシーニは語った。私は老カルパーニを通じて彼を紹介してもらいました。しかし彼の耳が聞こえないことと、私がドイツ語に無知なことで、会話は不可能でした。少なくとも彼に会えたことで満足です。」

評論家ハンスリックもロッシーニからベートーヴェン訪問の事を聞いたと記述しており、面会があった事の信ぴょう性は高そうです。

それによると「ベートーヴェンは丁重に出迎えてくれた。しかし、私(ロッシーニ)はドイツ語が分からず会話が出来なかったので短い訪問になった。」

会話にはなりませんでしたが、尊敬しているベートーヴェンの姿を見ただけでも、感動した事でしょう。新たな力が生まれたと思います。

この事の真偽はいまだにはっきりしません。でも、ロッシーニはその当時、人気作曲家だったのですから、嘘を付く理由はどこにもありません。会ったと想像する事が自然かと思います。

作曲家引退を決めたわけ

最大の理由は終身年金を得た事が大きかったようです。元々、怠け者だった彼にとって、自身の作品で得た収入や、終身年金により、一生安定して生活出来ると分かったとたん、これ幸いと作曲業から手を引きました。

今後の人生は自分の趣味に興じて生きようと思ったのです。元々、ロッシーニは食に興味がありました。だから、美食家として食を追求していくようになります。

44歳でそう思うとは普通の人間からすると早すぎる気がしますが、芸術家は一般の常識では測れないものです。

作曲家として音楽を極める事に嫌気がさしたのではないかとも思われます。作曲家は締め切りに追いかけられる仕事であり、完成した作品が人気が出るかどうかも分からないですから、そう思っても当然です。

それまでに作曲してきた作品が人気を博してかなりの財を成し、また、終身年金も手に入れた彼にとっては、願ったり叶ったりの状況が整ったという事でしょう。

美食家のその後

オペラ作曲家として大成してからのロッシーニは食通として知られるようになりました。学生の頃までには手も出せなかった高級料理に、ずっと憧れがあったのでしょう。

音楽界から引退後はパリに居を移し、自らサロンを開催し、社交界の中心に居続けます。食通作曲家として、時には、即興でピアノを披露したり、食についての知識を語ったりして過ごしていたようです。

また、自分でも高級レストランを開き、食の追求を続け、人気を博しました。トリュフを探す豚まで飼育していたとも言われています。

今でも、フランス料理で、ロッシーニ風とあるのは、ロッシーニ自ら考案した料理です。食に関しての追求は音楽に掛けた情熱よりも強く、グルメとして生きたのでした。

44歳で音楽界を引退し、美食の追求をするのですね。勿体ない気もします。
作曲家を続けていたら、もっと凄い作品を完成させたかもしれないな。

ロッシーニ再評価

ロッシーニはすぐに忘れられた作曲家でした。生前は大変人気のある作曲家で、数々のオペラ座で彼の作品が上演されていましたが、没後は『セビリアの理髪師』以外は上演されなくなります。

これは20世紀に入るまで、100年続きました。それまで上演されていた『セビリアの理髪師』もカットされたり、改変されたりとオリジナルとは違った作品になっていたのです。

ロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)の芸術監督を務めていたアルベルト・ゼッダがそんな状況に疑問を覚え、ロッシーニの『セビリアの理髪師』自筆楽譜を分析し、1969年に批評校訂版を出版しました。

これを契機に他の作品についても批評校訂版の出版が始まったのです。この流れから、ロッシーニの再評価が進み、彼の作品が次々と日の目を見るようになってきました。

この事を「ロッシーニ・ルネッサンス」と呼びます。この作業は現在でも続いており、彼の全作品が完成されるまで行われる予定です。

ロッシーニが20世紀半ばまで忘れられていた作曲家だったとは思いもよらぬ出来事でした。現在では数々のオペラが上演されています。

まとめ

ロッシーニの生涯を纏めてみました。一番凄かった時は、月に2、3曲は作曲していたようです。とても怠け者には思えませんが、マラドーナの神の手ならぬ奥の手を使っていたとは…。

しかし、多くの代表作があるのですから、立派な一流作曲家である事は確かです。『セビリアの理髪師』『ウィリアム・テル』などは序曲だけでも素晴らしいですからね。

作曲家をやめて、食の道に進むとは、これまた凄い話です。モーツァルトのようにギャンブルに走らなかったから、手元にお金が残ったのですね。終身年金も貰えるようになったから、決心がついたのでしょう。

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