【交響曲作曲家 ブルックナー 】嫌いな作曲家ワースト1に挙げられた作曲家の生涯とは!!

ブルックナーという作曲家をご存知ですか。学校の音楽室にも肖像画が無い所が多いと思います。クラシック音楽ファンでも熱狂的支持者以外、その生涯を知らない人の方が多いのではないのでしょうか。

ほとんど交響曲しか作曲しなかった作曲家です。余程彼のことを好きな人でない限り、そうは聴かない作曲家でしょう。ブルックナーは嫌いな作曲家ナンバー1ですから。特に女性には人気がありません。

重厚長大が嫌われる一番の理由です。『交響曲第8番』などは90分ほども掛かります。それだけでハードルが高くなっています。今回はそんなブルックナーの生涯を辿ってみたいと思います。

ブルックナーはそんなに嫌われている作曲家なのですか。
残念ながら日本では嫌いな作曲家ワースト1なのだよ。楽曲の長さと複雑さがその理由なのだろう。

ブルックナー略歴

ブルックナーは作曲家として活躍し始めたのは40歳ぐらいからです。それまでは教職に精をだしていました。その幼少期から作曲家となる前までをみていきましょう。

ブルックナー誕生・幼少期

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner)は1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村アンスフェルデンで生まれました。

10歳で父の代理で教会でオルガンを弾けるようになっていました。元々、音楽的才能は持っていたようです。

1835年(11歳)、ヨハン・バプティスト・ヴァイスというオルガニストに預けられ、本格的な音楽教育を初めて受けます。

1837年、父の死後、修道院長のアルネートが養父代わりとなり、聖フローリアンのアウグスティノ修道参事会の聖歌隊員養成所に入ります。その後、リンツの教員養成学校に1年半通った後、各地で助教員を務めました。

ブルックナーは父のように教師になりたかったようです。音楽の世界で活躍する事はこの時点では考えていませんでした。

兄弟は5人いたそうですが、なぜブルックナーだけを修道院へ入れたのかは良く分かっていません。他の4人は母親が引き取ったという話です。

音楽家への第1歩

小さな村の補助教員として働いていたブルックナーですが、1945年(21歳)に転機が訪れます。聖フローリアン修道院に欠員ができ、そこの補助教員として働き始めます。修道院では、バッハの対位法を研究しながら、私的にオルガンを弾く事が出来ました。

1848年(24歳)、聖フローリアンの正オルガニストが空席となり、ブルックナーが抜擢されます。1855年12月、31歳のブルックナーは専任オルガニストに任命されました。ここからブルックナーの音楽家の道が始まります。

1855年、ウィーンの音楽理論家、ジモン・ゼヒターに弟子入りし、6年間彼の下で厳しい研鑽を積みました。この6年間で音楽家としての理論を吸収していきます。

大学教授ブルックナー

1868年(44歳)には、ウィーン国立音楽院の教授に就任しました。ブルックナーにとっても驚きの展開だった事でしょう。

ウィーンに出て来たブルックナーは最初はオルガニストとして名声を得ました。大学で教鞭を取るようになってから、次第に作曲を始めるようになります。最初から交響曲に取り組む作曲家としてスタートしました。

ブルックナーエピソードその1

ブルックナーはビールが大好きでした。仕事帰りに決まった酒場へ入り、いつもビールを十数杯飲んでいたそうです。田舎からウィーンという大都会へ出てきて、憂さの晴らし方を知らなかったせいでアルコールに走ったのでしょうか。

小学校の1教師からトントン拍子に出世していったのですね。
聖フローリアン修道院の教師になって以降、オルガン奏者として名をなし、大学教授にまでなってしまった。

ブルックナー作曲家として活動

大学教授として安定した収入を得たブルックナーは、大学で教鞭を取る傍ら作曲の道に進みます。作曲家として生きようと何故この年齢で思ったのでしょうか。ブルックナーは不思議だらけです。

交響曲作曲家

ブルックナーは大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させます。初期の作品には『ヘ短調交響曲』(1863年)、『交響曲第1番ハ短調』(1866年)、『交響曲第0番』(1869年)、『交響曲第2番ハ短調』(1872年)があります。

ブルックナーが交響曲に力を注いだ理由は、自分でやってきたオルガンや宗教音楽以外に書けなかった事も大きな要因です。

彼は音楽大学の教授ではありましたが、他の分野はほとんど無知で、自宅には文学の本など1冊もなく、あるのは聖書ぐらいでした。一言でいえば教養が無かったことが最大の理由です。

ワーグナーとの出会い

ブルックナーは1873年(49歳)にリヒャルト・ワーグナーと会見する機会を得ました。この際に『交響曲第3番』を献呈し、ワーグナーの好意を得ます。異常なほどのワグネリアンでしたから、その心情は察して余りあります。

この時期に『交響曲第4番』(1874年)、『交響曲第5番』(1876年)を作曲します。特に第4番はブルックナーの交響曲としては人気も高く、1番演奏頻度の高いものかと思われます。

ブルックナーエピソードその2

ワーグナーと会った時に嬉しくなりビールを大量に飲んでしまい、酔い潰れてしまいます。その場でワーグナーは『交響曲第3番』を褒めたのですが、起きたブルックナーはどの曲を褒められたのか覚えてなく、失礼にもワーグナー宛に手紙を出し確認しました。ワーグナーはその手紙のきれっぱしに、「第3番、以上」との返事をくれたそうです。

この時期に作曲した交響曲は全く聴衆に受け入れて貰えませんでした。
当時としては独特過ぎて誰にも評価されなかったのだよ。

ブルックナーの改訂癖

ブルックナーは自分自身に自信がなかったようで、他人に指摘されると不安になり、すぐに楽譜を手直しするという悪い癖がありました。

ブルックナーの交響曲は改訂だらけ

1875年(51歳)からウィーン大学で音楽理論の講義を始めました。1876年(52歳)に第1回バイロイト音楽祭に出席し、『ニーベルングの指環』の初演を聴きます。この時に何を思ったのか、今までの自らの作品を改訂することを決断しました。

いわゆる「第1次改訂の波」です。交響曲第1~5番が大幅に改訂されました。しかし、1877年(53歳)の『交響曲第3番』の初演は失敗し、ブルックナーは落胆します。

ようやく作曲家として評価

1880年頃(56歳)になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してきます。無給だったウィーン大学での講義が有給になったためでした。

生活の安定は作曲活動にも良い影響を与え、『交響曲第7番』(1883年)、『テ・デウム』(1881年)が成功し、ブルックナーの名は一気に有名となったのです。

作曲家となって10年以上経っていました。作曲家となったのも遅すぎましたが、人気が出るのにも時間が掛かりました。

ここでようやく作曲家として評価されました。ずいぶん時間が掛かりましたね。
交響曲の質や深み、個性がようやく発揮されたためなのだ。作曲家になるのが遅かったため、本当の実力を出すのに時間が掛かったのだよ。

ブルックナーの晩年

ブルックナーはどうやら他人の意見を無視できない性格のようでした。新たに作った交響曲に対して、批判的な意見が出てまた改訂の嵐がやってきます。

第2次改訂の嵐

1884年(60歳)からは『交響曲第8番』の作曲に集中します。1887年(63歳)に完成しますが、尊敬していた指揮者や弟子たちから否定的な意見が出されたため、ブルックナーはショックを受け、またもや作品の改訂に着手します。

いわゆる「第2次改訂の波」です。交響曲第1、2、3、4、8番が改訂されました。様々な困難はありましたが、1892年(68歳)の第8番の初演は成功を遂げました。

ブルックナーの最期

ブルックナーは1896年10月11日、ウィーンで72年の生涯を閉じました。最期の日まで『交響曲第9番』(未完)の作曲をしていたと言われています。ザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下にブルックナーの棺が安置されています。

ブルックナーエピソードその3

ブルックナーは『交響曲00番』、『交響曲0番』という番号の交響曲があります。『00番』は習作、『0番』は『交響曲第1番』の後に書かれているため、交響曲自体が気に入らず、抹消するため「0」としたとの説が有力ですが、本当のところは分かりません。

ブルックナーの魅力

今まで誕生から最期までをざっと見てきましたが、ブルックナーは遅咲きの作曲家であって、改訂癖があって、単なるつまらないオジサンだったのではと思われる読者の方もいるのではないでしょうか。しかし、音楽的才能だけは持ち合わせていました。

音楽的な魅力

ブルックナー好きから言わせると彼の音楽には「壮大な響き」「音楽の緻密性」「精神性」などを感じるといいます。

「ブルックナー開始」「ブルックナー休止」「ブルックナーユニゾン」などブルックナー独自の奏法を生み出し、特徴的な作曲家です。

ブルックナーは聴けば聴くほど良いものとの認識が強まって来るようです。楽曲自体が難曲で、版の問題もあったり、厄介な作曲家と思いがちですが、ヘビーなファンから言わせるとその辺が魅力なんだそうです。

『交響曲第7番』から『第9番』までの後期交響曲は大変レベルの高い音楽であり、ブルックナーの最高傑作である『第8番』が頂点かと私的には思っています。私もブルックナーの良さに目覚めたのが遅かったので、エラそうな事は言えませんが…。

ブルックナーを攻略するには

とにかく作品が長いので初めから全曲通して聴こうと思わない事が基本かと思います。例えば『第7番』の第3楽章を聴いてみて下さい。10分ほどの楽章ですから取っ掛かりとしてはベストかなと思います。ここでの音楽は適度な激しさを持って演奏されます。

『第8番』、『第9番』の第2楽章も良いかと思います。軽快なスケルツォです。見事な楽曲だと認識出来ればこっちのものです。如何にもドイツ系の音楽が繰り広げられます。次に第1楽章、第3楽章という風にとりあえず1楽章ずつ聴いてみましょう。

そうすればあなたもいつしかブルックナーがコンサートホールでも聴けるようになっていけるはずです。版の問題は抜きにして、後期の3交響曲は聴いておかねばならない楽曲です。人類の宝ですから、聴かない理由はありません。

ブルックナー演奏時の「版」の問題

ブルックナーは自分の交響曲に改訂を入れています。大きな改訂だけでも2回あり、どの楽譜を使って演奏するか大問題です。

ハース版

初版に含まれる弟子たちの関与を除くために、国際ブルックナー協会は、ロベルト・ハースなどにより、譜面を校訂、「原典版」として出版し続け、一定の成果をあげました。これらを「第1次全集版」または「ハース版」と称しています。

ハースはナチスとの関係から協会を追放されたため、全ての交響曲の改訂は行なわれてはいません。特に『交響曲第3番』はハース版が未出版のまま終わっています。

ノヴァーク版

第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせました。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指したとされます。

ハースが既に校訂した曲もすべて校訂をやりなおし、改めて出版しました。これらを「第2次全集版」または「ノヴァーク版」と称しています。

『交響曲第3番』、『第4番』、『第8番』については早くから、改訂前後の譜面が別々に校訂・出版されており(第3番は3種)、その部分においてはハース版の問題点は解消されています。これらは区別のために「第1稿」「第2稿」あるいは「~年稿」などと呼ばれています。

現在も続く版論争

指揮者がブルックナーを演奏する場合、どの「版」を使うかは大問題です。「原点版」と呼ばれる「ハース版」を使う人もいれば、「ノヴァーク版」を使用する指揮者もいます。最近は「ノヴァーク版」を使う指揮者のほうが多いでしょうか。

どれが本当のオリジナルなのかが未だに解明されていないために、このようなことが演奏会ごとに繰り返されています。オーケストラの楽譜を扱うライブラリアンも大変だと思います。

ブルックナーエピソードその4

ブルックナーは生涯独身でした。というのも彼は少女趣味だったからです。中年になっても20歳以下の女性にしか興味がなく、オジサンが17歳の少女にせっせとラヴレターを送っていたなど、その手の話題には事欠きません。精神的に問題のある人物でした。

ブルックナーの改訂癖は尋常ではありませんね。
ブルックナー本人がこれが決定稿というものを残していないため、現在まで論争が続いているのだ。

まとめ

ブルックナーは気の小さな自分自身に自信のない人物でした。ですから、他人に駄目出しされるとすぐに曲に手直しを入れ、オリジナルがどうだったか今もって分からない曲も多くあります。

『交響曲第7番』から『第9番』は他の作曲家に類を見ないほど、斬新で、重厚で、雄大で非常に優れた曲です。是非とも、このブルックナーを聴いて欲しいと思います。

そして、ひとりでも多くの人がブルックナーの良さに気付いてほしいと願っています。

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