【ベートーヴェン三大ピアノソナタ】『悲愴』『月光』『熱情』人気の秘密を紐解く

ベートーヴェンの『悲愴』『月光』『熱情』の3曲は三大ピアノソナタと呼ばれています。いずれもベートーヴェンの傑作であり、32曲あるピアノソナタの中で最も人気の高い3作品かと思います。

どうして、この3作品が人気なのでしょうか。そこには聴き易さ、心に染みるメロディ、楽曲の雰囲気などの、聴く人に感動を与える主要な要素が詰まっているからです。また、ピアノ教室で教わったという方も多いのかもしれません。

後期三大ピアノソナタ(30番~32番)と違って生き生きとしたベートーヴェンの活気溢れる音楽という事もあるのでしょう。この3作品の人気の理由を探りながら、1曲ずつ解説していきたいと思います。

どうしてこの3作品が選ばれたのか

三大ピアノソナタと言われる所以はどこにあるのでしょうか。誰がこの3作品を三大ピアノソナタと名付けたかとても興味があります。

色々と調べたところによると、正確な会社名までは分かりませんでしたが、なんとそれはレコード会社でした。レコードの売り上げを増やすために、この3曲をカップリングし、三大ピアノソナタとして販売した事が始まりのようです。

タイトルがあるピアノソナタの中で人気の高い3曲をカップリングすると、LPレコードの録音時間内にピッタリと納まります。これも決め手のひとつとなったようです。

レコードの売り上げを伸ばす販売促進のキャッチコピーが「三大ピアノソナタ」だったのです。それが当たったため、他のレコード各社も真似をして広まっていったというのが真相でした。

著名な音楽評論家とか文学者が名付けたという粋な答えを期待したところでしたが、レコードの販促のためだったとは夢のない結論になってしまいましたね。

「三大ピアノソナタ」はレコード会社が名付けた販促のキャッチコピーだったのですね。
タイトルが付いている作品は呼び易さも手伝い、人気が高くなる傾向が見られるからね。それにしてもリアルな理由で残念だな。

ピアノソナタ第8番「悲愴」

1797年から1798年にかけて作曲されたと思われるこの作品は、1799年には楽譜も出版され、人気が高く、売れ行きも好調だったようです。この作品によってピアニストとして有名だったベートーヴェンは作曲家としても認知されるのでした。

タイトル「悲愴」について

ベートーヴェン本人が作品にタイトルを付ける事は非常に稀でした。「悲愴」というタイトルは楽譜の初版から付けられていたもので、ベートーヴェンが名付けたのか、楽譜出版社が名付けたものかは分かっていません。

ベートーヴェンの自筆譜が失われているので、確証が取れないのです。楽譜の初版は残されているので、そこから推理するありません。

楽譜出版に際してベートーヴェンが了承している事から考えると、ベートーヴェン本人説が有力ではないかと思います。もし、誰かが勝手にタイトルを付けていたら、出版前にベートーヴェンが「NG」を出している筈です。

ベートーヴェンは一切の妥協を許さなかった人物で、楽譜の校正などから確りと自分で確認していました。そんな人物が他人にタイトルを付けられたと分かったならば決して黙っていなかった事でしょう。

「悲愴」楽曲について

ベートーヴェン前期のピアノソナタの頂点に立つ作品です。この頃のベートーヴェンは難聴に悩んでいた頃なので、「悲愴」のタイトルと重ねて考える人は多くいますが、この「悲愴」はそれとは違った意味を持っていると思います。

第1楽章冒頭の序奏部分だけを聴くと、Grave(重々しく)という速度記号で始まるため、気持ちが沈んでいる様子で、いかにも「悲愴感」に溢れています。しかし、その後にAllegroに変わり、情熱的な第1主題が奏でられ、音楽の印象も変わります。

この事から「悲愴」というタイトルは「後期3大ピアノソナタ」で見せる様な「諦観」のようなものではなく、むしろ積極的な意味、生きるために頑張ろう的な感じなのではないかと思われます。

第2楽章は最も有名な緩徐楽章です。美しいメロディが奏でられます。この作品が発表された当時は、この第2楽章のメロディに歌詞を付けて歌われた事もあったようです。

”Pathetique”を「悲愴」と訳していますが、この作品は、単に悲しくて痛ましい様を表しているわけではありません。横文字には全く弱い私ですが、この訳が独り歩きしているように思われます。ベートーヴェンが伝えたかった事とは違っているのではないでしょうか。

第2楽章は「のだめカンタービレ」でも使われていましたね。
どの楽章も素晴らしい出来栄えだね。名曲の要素が詰め込まれてる。ベートーヴェン初期の代表作なのだ。

ピアノソナタ第14番「月光」

1801年に作曲されたこの作品は、1802年には楽譜も出版されました。ピアニストとしても、作曲家としても知られるようになったベートーヴェンが、ひとりの乙女に恋心を抱きます。この作品はその時期に作曲されました。

幻想曲風ソナタ

ベートーヴェン自身により「幻想曲風ソナタ」とのタイトルが付けられ、出版されました。同時に出版された『ピアノソナタ第13番』にも同じタイトルが付けられています。

ベートーヴェンがピアノを教えていた、当時17歳のジュリエッタ・グイッチャルディに熱を上げ、友人に宛てた手紙にもその事を書いています。ベートーヴェン30歳の頃です。

その手紙には両想いのような事が書いてありますが、ジュリエッタはどうだったのか、今では知る由もありません。おそらくは、その頃の少女が夢見るであろう恋愛への憧れによる、疑似体験のようなものかと思われます。

ベートーヴェンも分別をわきまえていた人物ですから、当然身分の違いにより、結婚などはかなわぬ相手だと思っていた事でしょう。そんな障害があったから尚更思いが募ったと思われます。

彼女の結婚により、この恋愛が夢に終わったベートーヴェンは『ピアノソナタ第13番』『ピアノソナタ第14番』を彼女に献呈したのでした。

タイトル「月光」について

ベートーヴェンはこの作品に「幻想曲風ソナタ」と名付けましたが、「月光」という愛称は彼の没後に付けられたものです。

ベートーヴェンの死から5年が経過した1832年、ドイツの詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープがこの作品の第1楽章は「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した事に由来します。

この愛称「月光」は瞬く間に広がり、「幻想曲風ソナタ」は忘れ去られ、『ピアノソナタ第14番』は世界的に「月光」と呼ばれるようになったのです。

どうも、出来過ぎた話だと思いませんか?詩人のレルシュタープは当時有名な方でしたが、その人がそう表現しただけで、そんなに爆発的に広まり、楽譜も「月光」に置き換えられていくまでになるとはにわかに信じられません。

事実、この話の真偽は不明なのです。この説が有力となっているだけです。そんな風流な話だけではなく、もっと現実的な理由があったのではないかとも思うのです。

「月光」楽曲について

この作品でベートーヴェンは実験的な改革を行っています。それは、第1楽章を緩徐楽章にした事です。ピアノソナタの慣例を破るものでした。

一般的なピアノソナタは第1楽章をソナタ形式にする事でしたが、彼はそれを第3楽章に持っていきます。意識してベートーヴェンは革新さを求めたのでした。

第1楽章はレルシュタープが例えたように、夜のイメージがあります。ベートーヴェンの弟子のツェルニーも、「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」との感想を述べています。

聴き手に夜の水辺のイメージを与えるのです。ベートーヴェンは「幻想曲風ソナタ」と名付けたように自由な発想での演奏を求めています。しかし、多くの方が夜をイメージし、水辺までも思わせる事をベートーヴェンは意識していたのでしょうか。

いずれにしても、明るいイメージではありません。それを救ってくれるのが第2楽章です。とても軽やかな雰囲気を持った楽章です。

第3楽章はPresto agitatoですから、速く激しさに満ちた音楽が奏でられます。音楽の緩急や強弱が高揚感をあおるかのようです。時折、顔を表すスフォルザンドが効果的に使われています。

第1楽章は「月光」のタイトルの元になった楽章です。この楽章はゆっくりとした音楽になっています。
この作品はそれまでのピアノソナタの概念を変えた革新的なものなんだ。ピアノソナタの形式を打ち壊した!

ピアノソナタ第23番「熱情」

1804年から1805年にかけて作曲されたとされているこの作品は、1807年に楽譜が出版されました。ベートーヴェン中期を代表する傑作です。この作品もベートーヴェンの恋から生まれました。

叶わない思い

「熱情」ソナタはあるひとりの女性に対するベートーヴェンの「熱情」でもあったのです。激しい燃えるような恋をしたベートーヴェンはこの「熱情」を作曲したのでした。

この当時のベートーヴェンのピアノの教え子は、ハンガリーの名門貴族ブルンスヴィク家のテレーゼとヨゼフィーネ姉妹です。一家はハンガリーからウィーンへやってきた時から、ベートーヴェンとの付き合いが始まったのでした。

この一家は「月光」で紹介したジュリエッタ・グイッチャルディ嬢とは知り合いで、ベートーヴェンが彼女との恋に破れた後、恋多き彼は今度はヨゼフィーネに恋してしまうのです。

ベートーヴェンにとって身分の違いはどうしようもありませんでした。彼女は結婚してしまいます。しかし、4年後に夫を亡くし、未亡人となったのでした。

未亡人となった彼女は、再びベートーヴェンにピアノを教わる事となります。一旦は諦めたベートーヴェンでしたが、再び恋心は燃え盛り、一旦は2人の関係は良好になります。

しかし、当時の音楽家は名士であっても貴族とは比較にならないほどの身分差がありました。いくら思いを寄せても絶対に叶わない恋だったのです。

その思いをこの作品に込めたと考えて良さそうです。再び出会ったのが1804年、そして「熱情」作曲が1804年から1805年にかけてですから、この曲は彼女への思いが詰まった作品となったのでした。

タイトル「熱情」について

このピアノソナタのタイトルも本人が名付けたわけではありません。ベートーヴェン没後10年以上経った1838年に、ハンブルクの音楽出版社クランツから出版された楽譜に「熱情」というタイトルが付けられました。

この時は「4手連弾版」の楽譜出版でしたが、いつの間にかオリジナルも「熱情」と呼ばれるようになっていったのです。

誰が名付けたかは明白で、楽譜出版社クランツの担当者だったと容易に想像が付きます。この作品の非常に情熱的でダイナミックなところから、「熱情」と名付けたと思われます。

タイトルが劇的である方が楽譜は売れますから、そんな思いでこのタイトルを付けたのでしょう。「Appassionata」って響き自体もかっこいいですからね。

「熱情」楽曲について

「熱情」作曲の際のピアノは1803年にフランスのエラール社から贈られた5オクターブ半(68鍵)のものでした。ベートーヴェンは長い間ピアノ製作者にもっと音域が広いものをと注文を付けていました。

ピアノの発達がベートーヴェンの創作の幅を広げたといっても良いでしょう。このピアノはそれまで膝で捜査していたレバーが足元に付いているもので、現在のピアノに大分近づいたものとなっています。

ベートーヴェンの斬新さが至るところに見られ、ピアノソナタの中でも傑作中の傑作です。これも、新しいピアノを使いこなせるようになった事によるものが大きいのかもしれません。

第1楽章は交響曲『運命』に使われた運命動機が度々顔を出します。冒頭は静かに始まりますが、主旋律に入ってからは「熱情」に相応しく激しく、緊張感あふれる楽曲が展開されます。

第2楽章は静かで穏やかな曲です。美しい変奏が続きます。アタッカで入る第3楽章は圧巻です。スピーディで隙のない音楽構成、緊迫感に満ちた楽章となっています。

傑作とはこういう音楽を言うのですね。
「熱情」はピアノソナタの中でも難易度がとても高い。傑作だがピアニストにとっては厄介な作品なのだよ。

まとめ

ベートーヴェンの「三大ピアノソナタ」をそれぞれ見てきました。どれもが名曲ですが、中でも「熱情」の見事さは目を見張るものがあります。傑作とはどういう音楽なのかを教えてくれます。

ベートーヴェンのピアノソナタは32曲もあります。「三大ピアノソナタ」をきっかけにして、自分でその範囲を広げていってくれるとありがたいです。

「後期三大ピアノソナタ」と呼ばれているものもあります。ベートーヴェンが辿り着いた境地に触れるのもいいものです。ぜひ、こちらもお読みください。

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