自分の好きな指揮者のエピソードを知るのはとても楽しい事です。特に皆が知らないようなマル秘エピソードだと余計に嬉しくなります。
カルロス・クライバーは惜しくも名演を残して逝ってしまいましたが、彼の1994年ウィーン国立歌劇場との日本引っ越し公演のギャラがいくらだったかをご存知でしょうか?
指揮者に関するギャラは闇の中、プロモート会社の秘中の秘です。でも面白い事に、ある関係者にカルロス・クライバーがこの時のギャラの話をうかつにも話してしまいました。
この記事ではカルロス・クライバーの経歴や生い立ち、そして1994年の彼の衝撃的なギャラまで紹介していきたいと思います!
カルロス・クライバーとは
1930年ベルリン生まれ。父は20世紀を代表する指揮者エーリッヒ・クライバーです。ナチスから逃れるため一家はアルゼンチンに亡命します。その地で音楽を学びますが、父エーリッヒの勧めもありスイスの工科大学に進みました。
しかしカルロスは音楽の道を諦めきれず「カール・ケラー」という芸名を使って指揮者としてデビューします。芸名を使ったのは父エーリッヒに知られないためと、親の七光りと言われたくなかった事も大きな理由です。
父エーリッヒは後に指揮者になることを許し、配慮してくれることもありましたが、基本的に賛成していたわけではありませんでした。
カルロスの指揮に対しての批評や批判はかなり厳しいものがあったようです。偉大なる父とその息子というのは我々にはわからない深い溝ができやすいのでしょうか?
指揮者としてデビューしたカルロスはいくつかの歌劇場を経験したあと、1968年バイエルン国立歌劇場の指揮者となり、ここで世界に認められられるようになります。1973年にはバイロイト音楽祭にも招かれ、そこでも絶賛を博し世界的名声をより高めました。
ベルリン・フィルやウィーン・フィルとも共演しています。そこで奏でる音楽だけでなく、その流麗なる指揮振りに対しても毎回賞賛される事になります。
しかし歳を重ねるにつれ演奏会の数は次第に減っていくのです。更に公演のキャンセルも多くなり、晩年はその演奏自体に接する機会が年数回しかない事態となりました。
録音に関しても自分が気に入った曲だけに限り、なおかつ十分に勉強したものだけしかレコード会社と契約をしていません。
自分の好むものだけをじっくり検討して客に聴かせる、このスタンスだけはずっと変えませんでした。ですから演奏する曲はほんの一握りだけ。本当にレパートリーの少ない指揮者でした。
キャンセル魔 カルロス・クライバー
カルロス・クライバーが世界的指揮者として認められ始められた頃から、キャンセルが多い指揮者というネガティブな評価も付きまとい始めました。
彼の練習風景を映したビデオが出ていますが、彼の要求がオーケストラに上手く伝わらず、しばしば怒ってしまう場面があります。
演奏する曲に対して一つも妥協を許せない彼が、演奏者に対してなぜこんな事ができないのか怒っている姿。そしてそれを上手い言葉で表現できない自分に対してイライラしている感じがよく伝わってきます。
そんな時はほとんどの場合で練習場から出て行き、その後の練習だけでなくコンサート自体もキャンセルしてしまうのです。
カルロス・クライバーがうつ病だったという人も多くいます。だから人と上手く接することができず、たわいないことでよくキャンセルしてしまうのだと。
その事実はよく分かりませんが、彼が滅多にコンサートを行わなくなってからは、コンサート予定が発表されただけで世間を騒がせました。
客たちはどうぞキャンセルしませんようにと祈りながら、こぞって彼のチケットを手に入れコンサートの日を待つのです。そして、コンサート当日は運のよかった人たちだけが演奏を聴くことができます。
こんな事が続くようになって、カルロス・クライバーを聴くことは誰よりも難しくなり、彼のコンサートチケットはプラチナチケットになっていきました。
日本が大好きだったカルロス・クライバー
オペラとコンサートだけで来日したのは5回ありますが、彼は仕事とは関係なくお忍びでも何回も来日しています。
東京はもちろん箱根、京都、九州、沖縄などを訪れています。和食や日本酒を好み、特に箱根の温泉がお気に入りだったようです。
インタビュー嫌いな彼でしたから本心は分かりかねますが、こんな極東の果ての国に時間をかけてきてくれるのですから、やっぱり彼は日本が大好きな人だったと思います。
来日回数といい、お忍び旅行といい、あんなにキャンセル魔の彼が何回も訪れているのですから、日本人として嬉しい限りです。
1994年の来日公演は超破格のギャラだった
1994年9月から10月にウィーン国立歌劇場管弦楽団、同合唱団が来日しました。このうちカルロス・クライバーは後半の10月7日から10月20日までリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』の6公演のみ演奏しました。
この時の彼はとても機嫌がよく、何をするのも上機嫌で接していたようです。その様子を見て、ある関係者がなんでそんなに上機嫌なのかを尋ねたそうです。
ここで前文に書いたカルロス・クライバーの言葉につながります。この公演のギャラについてとても嬉しそうに話したそうです。
実にその額、約10億円!!(おそらく800万ユーロ)、本当に笑いながら、ありえないでしょう、みたいな顔をしながら楽しそうに話したそうです。
キャンセルの多い指揮者をいかにして日本まで連れてくるかの決定打はお金だったようです。親日家であった理由がギャラが良かったからからとは思いたくないですが、誰でも高額な金額には心乱されるのでしょうか。
それにしても10億円のギャラとは前代未聞です。こんな価格を提示しこれでも儲けが出ると判断した日本のプロモーターも凄いものです。
日本・オーストリア修好125周年の記念行事という事もあり、定評のあるカルロス・クライバーの『薔薇の騎士』公演を日本で実現させたかったためでもあったのでしょう。
キャンセル魔のクライバーですから本当に当日指揮台に上がるかどうかわかりません。キャンセルしたらかなりの違約金が発生することになるでしょう。カルロス・クライバー側もよくその契約を受けたと思います。
このギャラの話を聞いてその公演のS席のチケットが6万5千円だったのも頷けます。
「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンでさえワンステージは一千万円単位だったそうですし、今のアメリカの五大オーケストラの音楽監督のギャラは年収2億円程度です。それを考えるとカルロス・クライバーのあの時のギャラは超破格でした。
個々人のギャラは極秘事項ですので、この話が本当なのかどうかは確実に証明できるものではありません。しかし、当時の報道関係者から800万ユーロという金額が出た事から見て、金額は違っているかもしれませんが、かつてない破格のものだった事は確実です。
バブル後の今となってはこの記録を抜く事はもうできないでしょう。日本が超インフレになって、貨幣価値が低下する事がない限り、世界一のギャラとして輝き続けるでしょう。
1994年公演の評価
この公演はカルロス・クライバーの生涯最後のオペラ公演となってしまいました。この公演をお聴きになった方は幸運としか言いようがありません。
『薔薇の騎士』は彼の得意のオペラでしたから、公演は大成功でした。クライバー自身「生涯最高の出来だった」と語っていました。残念なのはこの公演の録音をOKしなかった事です。
1994年の引っ越し公演の直前にほぼ同じキャストでの録音、映像化をウィーンで行っていました。このために引っ越し公演の録音、録画には許可が下りなかったのです。
これには後日談があります。クライバー自身が引っ越し公演最終日の録音を手に入れたがっていたというのです。余程の出来栄えだったために手元に置いておきたかったのでしょう。
個人的に客席でこっそりと録音していた人もいたでしょうから、手に入ったかどうか、今では知る由もありません。
まとめ
カルロス・クライバーはたった6公演のオペラ公演で10億円を手にしました。それだけのギャラを出しても日本に呼びたい指揮者だったのです。
彼は日本にやってきて、名演を上演して去っていきました。彼のオペラ演奏は日本公演が生涯最後となったのです。そして、彼の来日公演もこれが最後となったのでした。