エリック・サティという作曲家の名前は知らなくても、楽曲を聴いた事がある人は、かなり多数の方がいらっしゃると思います。『ジムノペディ』や『お前が欲しい』などはとてもポピュラーな楽曲です。

一応ジャンル分けするとクラシック音楽になっていますが、ポピュラー音楽作曲家でもおかしくありません。クラシック音楽ファンとしてもサティはクラシック専用ホールで聴くよりも、家でのんびりとBGM的に聴きたい雰囲気があります。

サティの音楽はどこかフランスのエスプリを感じる音楽です。やはりフランス人ってちょっと違うのですね。サティの生涯を詳しく調べていきましょう。

サティは本当の自由人といえる人だったようです。
世間ではそれを変人と呼ぶのだよ。

サティの青年期まで

サティは「音楽界の異端児」、「音楽界の変わり者」などと称されます。どうしてそう呼ばれるか気になりますね。そんなサティの青年期までをみていきましょう。

サティの幼少期

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Érik Alfred Leslie Satie)は1866年5月17日、フランス、ノルマンディー地方の港町であるオンフルールで、フランス人の父とスコットランド人の母の元に生まれました。

幼い頃に母とは死に別れ、さらに祖父母の元に預けられて育ちます。6歳のときカトリックに改宗。預けられた祖父母の意向だったのでしょうが、この改宗がサティにとっては大きな意味合いを持ってきます。

カトリック教徒ですから、日曜には教会に集まり、祈りを捧げます。幼いサティは教会に行くことが何より楽しみとなりました。

それは神とは何の関わりのない事で、何と彼は教会のパイプオルガンの音に魅了されてしまったからです。彼の意図を知った祖父は、音楽を学ばせてくれるようになりました。

サティが12歳のときに祖母が亡くなり、祖父ひとりの手では育てられないとの理由で、サティはパリにいた父の元で暮らすようになるのです。

パリ音楽院入学

13歳でパリ音楽院へ入学しました。同校といえば音楽の名門中の名門ですのでサティはよほど音楽的才能があったと思われます。異端児とは思えぬ、エリート街道からのスタートです。

音楽院には7年間在籍しましたが、「退屈すぎるから」という理由で勝手に退学してしまいます。不真面目な学生だったため、自主退学させられたという話もあります。

サティにとっては、堅苦しい音楽院での授業は、自分には合わないと感じていたのでしょう。この自由さがサティをサティたらしめている一番の要因ではないかと思います。サティの価値観は我々の尺度でははかり得ないものだったのです。

生活のための音楽

音楽への興味をなくして音楽院を辞めたわけではないので、サティは作曲を続けました。生活のため、酒場のピアニストとして働き始めます。

ここでの経験も後のサティの音楽の糧になっていくのでした。酒場には様々な人が出入りし、彼らの影響を受けたものと思います。

早速、サティの自由人さが始まりましたね。勝手に学校を辞めてしまいました。
彼にとって、音楽院での授業は余程つまらなかったのだろうね。自分にとって必要のないものばかりだったと思ったんだな。

作曲家としてスタート

酒場のピアニストとして働いていたサティは本格的に作曲にも手を染めていきます。しかし作曲する楽曲は奇抜なものが多くあります。

サティの音楽の考え方

サティの音楽の特徴は、それまでの常識を全く意識していない事です。音楽の理論は様々な形式があります。それを彼は無視して、自分の思うがままに作曲していきました。

サティは自分の音楽を『家具の音楽』と名付けます。彼の音楽は家具のように当たり前にそこにあるからです。なんの違和感もなく存在する音楽を目指したのでした。

『ジムノペディ』作曲

この頃に生まれたのが、『ジムノペディ』です。古代ギリシアの「ジムノペディア」というお祭りから着想を得て書いたといわれています。

とてもゆったりとした穏やかな楽曲です。今では『ジムノペディ』といったらサティの代名詞のように思われています。落ち着いているようでもあり、悲しみに沈んでいるようでもあり、不思議な楽曲です。

『ジムノペディ』はドビュッシーやラベルなどに大きな影響を与えました。印象主義音楽が誕生するきっかけを与えた音楽だったのです。サティにとってはそんな事は全く関係ない話でしょうが…。

『ヴェクサシオン』

『ヴェクサシオン』という作品を知っていますか?余程サティが好きでなければ、知らない作品です。タイトルは「嫌がらせ」を意味します。

この作品は全く異常なもので、1分程度の短いフレーズを840回繰り返すという、考えられない作品なのです。単純計算で840分=14時間かかります。

こんな楽曲でも演奏された事があり、10人以上のピアニストが交代で14時間演奏したそうです。異端な作曲家と呼ばれても仕方がありませんね。

奇抜なタイトル

音楽界の変わり者といわれる理由のひとつに奇妙なタイトルの作品が挙げられます。

『梨の形をした3つの小品』(ただし7曲ある)
『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』
『あらゆる意味にでっちあげられた数章』
『快い絶望』
『干からびた胎児』
『官僚的なソナチネ』

他にも例を挙げればキリがありません。彼の中の常識は我々には理解不能です。作品の人気が出るかどうかなど意に関していなかったのでしょう。

『梨の形をした3つの小品』エピソード

ある時、ドビュッシーは、あまりに奇妙な曲ばかりを作るサティに対し、「君はもっと形式を大切にするべきだ」とたしなめます。そこでサティは『梨の形をした3つの小品』を作曲しました。フランスでは梨には間抜けという意味もあるので「形式ばって書いてやったぞ、この間抜けめ」という意味も込めたのです。

奇抜な日常生活

サティはとても奇抜な行動をするようになります。元々、危ない人だったのが顔を出し始めたのか、変人作曲家の本領発揮です。

300通の手紙

サティは半年ほど付き合った女性がいました。余程彼女を愛していたらしく、毎日のようにラヴレターを書いたのです。しかし、ここからが異常で、その手紙は1通も出す事はありませんでした。

何のためにラヴレターを書いていたのでしょうか?危ない人物だったとしか考えられないですね。その数は300通もあるのです。彼の没後、ピアノの上には手紙が山積みになって発見されたといわれています。

いつも黒服

サティは同じ黒い服を12着用意しておき、いつでも黒服を着ていました。1着がダメになると、次の新しい黒服に着替えてという事をしていたらしいです。

黒服に拘った理由などは不明ですが、サティならではの根拠があったのでしょう。

外出時の必需品

サティは出歩く時には必ずポケットにハンマーを忍ばせていました。護身用だったと思いますが、どう考えても不審者ですね。

また、必ず傘も持ち歩いたようです。これも、天気云々よりも、護身用だったのでしょう。

仕事場まで徒歩で出勤

彼が働いていた酒場は自宅から10キロもありましたが、彼は毎日歩いて通っていたそうです。途中でカフェなどを転々として作曲をしたりしていました。

前述した護身用の「武器」を持ち、毎日歩いていた理由は、自宅に電気も水道もなかったからです。引っ越しを考えるとか、考えなかったのでしょうか。やはり、彼の考えている事は、凡人の常識の範囲外なのですね。

作品のタイトルといい、日常の暮らしぶりといい、尋常ではありません!
作曲家は変人が多いからね。それにしても奇抜過ぎて理解に苦しむよ。

音楽学校に再入学

正式に学校を出ていないことは気にかかっていたらしく、40代に入って再び音楽を学び始めます。

学んだ先はパリ音楽院ではなく、スコラ・カントルムという学校でした。この学校では真面目に4年間学んだようです。

学校で真面目に学んだからといって、サティの音楽は何も変わりませんでした。相変わらずタイトルは奇妙なものですし、あくまで、自身の音楽を実践していきます。

サティの最期

クラシック音楽界に異端の風を吹き込んだサティでしたが、晩年の暮らしぶりはよく分かっていません。

1925年2月、サティは過度の飲酒がたたって肝硬変および胸膜炎を発症し、入院を余儀なくされます。死期を悟ってもなお彼は自己を貫き、喧嘩別れしたかつての友人たちと会うことを最後まで拒みました。

1925年7月1日、サティは亡くなります。59歳でした。死因は肝硬変であったといわれています。

まとめ

サティをどう評価するかはとても難しいことです。音楽の先駆者と捉えることもできますし、単に空想的な音楽ばかりを作っていたという批判も成り立つでしょう。

『ジムノペディ』『ジュ・トゥ・ヴー』『グノシエンヌ』のような大衆受けする音楽もありますし、この曲はちょっとねえと思わされる音楽も多くあります。

サティの音楽は気楽に聴けます。サティを知らない人たちも一度聴いて頂きたい音楽家の1人です。絶対楽しめますよ。

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