ずいぶん前の映画になってしまいましたが、『2001年宇宙の旅』の冒頭に流れる曲は交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』という曲です。この映画を始めて見る物にとって、強烈なインパクトをもたらしました。

あの劇的な曲を作曲したのがリヒャルト・シュトラウスです。彼は交響曲を始めとして、オペラ、交響詩、歌曲など素晴らしい曲を数多く作曲しました。作曲だけに留まらず、指揮者としてもその能力を発揮し、有名なオペラ座や世界的オーケストラの指揮をしました。

19世紀から20世紀を挟んで活躍した偉大なる音楽家です。彼の作品は1度も忘れられることなく、現在でも演奏され続けています。これも凄い事です。彼の生い立ちから、成功への道までを書いていこうと思います。

リヒャルト・シュトラウスは作曲家として有名ですが、実は指揮者としても実力者でした。
ベルリン・フィルの音楽監督や、ウィーンオペラ座の音楽総監督などもを歴任しているよ。

リヒャルト・シュトラウスの生い立ち

リヒャルト・シュトラウスは父親がオーケストラの楽員で、父の英才教育で、彼も幼少から音楽的才能に恵まれました。成長と同時に音楽家として充実した人生を送る事になります。

幼少期

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss)は、1864年6月11日、バイエルン王国のミュンヘンで生まれました。父はミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者、母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者の娘でした。

リヒャルト・シュトラウスの音楽教育は4歳から始まります。1868年に最初のピアノ・レッスンを父の友人から、そしてヴァイオリンは従兄から教わりました。

1870年(6歳)に教会付属小学校に入学します。この頃から作曲を始めていたようで、音楽的素養を早くから発揮してしていました。

10歳から、王立ルートヴィヒス・ギムナジウムに通います。成績は優秀で、音楽と並んで、歴史と古典文学が好きな少年だったようです。在学中も作曲は続けていました。

音楽に関しては早熟で、在学中の1875年~80年には宮廷楽長マイヤーに作曲法と理論を学ぶほどのレベルまでになっています。

青年期

1882年(18歳)秋、ミュンヘン大学哲学科に入学しましたが、翌年には退学しています。もう、学ぶ事などなかったのでしょうか。この年には彼に大きな影響を与えたマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽長ハンス・フォン・ビューローとの出会いがありました。

そして1885年10月21歳で指揮者デビュー。12月にはこのマイニンゲン宮廷管弦楽団の音楽監督に就任します。

マイニンゲン宮廷管弦楽団では、コンサート・マスターのアレクサンダー・リッターと親しくなりました。この出会いは彼の作風を左右するほどの大きな出来事だったのです。 

リッターはワグネリアンでした。保守的な音楽を好んでいたリヒャルト・シュトラウスをも変えてしまうのです。ワーグナーに影響を受けるようになった彼の作風は変化していくのでした。

マイニンゲン宮廷交響楽団に係わるようになり、ハンス・フォン・ビューローとアレクサンダー・リッターという二人に出会った事で、リヒャルト・シュトラウスのその後の人生が変わったといっても過言ではないでしょう。

1888年(24歳)、彼の出世作となった交響詩『ドン・ファン』を作曲しました。リッターの影響を受け革新的作曲スタイルに変身した後の作品です。

1889年(25歳)ヴァイマール宮廷劇場の第二楽長に就任します(1894年まで)。交響詩『死と変容』(1888-89年)作曲。1894年(30歳)9月にパウリーネと結婚。

妻パウリーネは世間の評価としては悪妻ですが、リヒャルト・シュトラウスの仕事を支えた良き伴侶という面も持ち合わせています。彼女がいたからこそ彼はここまでの音楽になれたとも言えそうです。

マイニンゲン宮廷管弦楽団で彼の運命を変える二人との出会いがありました。
ビューローとリッターとの出会いは、彼の音楽に大きな影響を与えたのだ。

音楽家としての大躍進

作曲者としても指揮者としても仕事が入り、車の両輪が回るようにどちらも上手く行きます。まさに音楽家として花開いた時期です。

指揮者・作曲家の二刀流

1896年(32歳)ミュンヘンの宮廷歌劇場第第一楽長となります。そして1898~1918年にはベルリン第一宮廷楽長に就任し、オペラの指揮者として活躍しました。

当時はそのテーマや手法の斬新さから聴衆から批判を浴びることも少なくありませんでしたが、自身は「真の芸術ほど最初は理解されないものだ」と語り、また「音楽で表現できないものはない」と、管弦楽の音だけによって日常から哲学の世界までをも描くことに挑戦し続けました。

代表作の一つ、交響曲『ツァラトゥストラはかく語りき』(1896年作曲)は、自身の持つ作曲技法を駆使し、哲学者ニーチェの思想の表現に挑んだ作品です。

この作品を作曲する前に、リヒャルト・シュトラウスはニーチェにかぶれた時期があり、彼に感化されてこの曲を書きました。次第に彼はオペラの世界に興味が向き始め、最後の交響詩『英雄の生涯』を書き上げると、オペラの世界に没頭するのでした。

次々と自信作を発表

1904年(40歳)にアメリカに渡り新作の『家庭交響曲』(1903年)を初演しました。

1905年(41歳)にオスカー・ワイルドの戯曲をドイツ語訳にして作曲したオペラ『サロメ』を初演します。反響は大きいものがありましたが、聖書を題材にしている事が反社会的とされ、上演禁止となった都市も数多くあります。

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場公演でも聴衆が騒ぎ出し、1度の上演だけで全ての公演がキャンセルされました。今でこそ独特の世界観を持つオペラとして絶賛される作品ですが、当時ではあまりにも時代の先端を行き過ぎていたためです。

リヒャルト・シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラです。この2人の組み合わせはまるで神の導きのような関係で、その後も名作を生み続けます。

音楽家として大活躍の日々

1908年(44歳)、ベルリン・フィルハーモニー音楽総監督に選ばれます。彼の指揮者としての力量が認められたためでした。

ホフマンスタールとの2作目になる『ばらの騎士』(1910年)は、大成功をおさめ作曲家として確固たる地位を獲得しました。その後も最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』までオペラに力を入れ続けました。

1917~20年はベルリン高等音楽院作曲家マイスター・クラス主任教授までも務めるようになります。毎日が音楽の日々で多忙を極めました。

1919にはウィーン国立歌劇場総監督就任。指揮者としては最高のポストまで登りつめた訳です。正に順風満帆の時期でした。

リヒャルト・シュトラウスの暗闇の時代

順風満帆な音楽生活に次第に戦争の陰が近づいてきます。ナチスが政権を握った後はドイツの音楽家は協力するか否かで随分と自己葛藤があったのだと思います。

ナチスへの協力と決別

1933年11月、ドイツの政権を握ったナチスに請われて第三帝国音楽局総裁に就任します。その理由は近親にユダヤ系人間がいたためにナチスに迎合したためでした。

ナチスによるユダヤ人迫害は次第に音楽家にも向けられていきました。この事やナチスの要求があまりにも理不尽な事が多かったため、彼はこのポストを辞任する事を決意します。

ナチス政権と対立していた彼は、1935年にナチスの音楽局総裁を辞任しました。

リヒャルト・シュトラウス晩年

ナチスと決別した後も彼はドイツで暮らしていましたが、敗戦後は戦犯問題で苦労し、なかなか第一線には戻れませんでした。

ドイツ敗戦

第二次世界大戦(1939-45)が勃発しても、リヒャルト・シュトラウスは戦争中もドイツに留まっていました。1945年ドイツが敗戦を迎え、ナチスに協力したという理由で戦犯裁判にかけられますが、結果は無罪となります。

1948年、家族の薦めもあって『4つの最後の歌』を作曲しました。彼は生涯を通じて数多くの歌曲を作曲しましたが、この作品は最も有名な歌曲のひとつでしょう。現在も頻繁にオーケストラの公演で取り上げられます。

リヒャルト・シュトラウスの最期

無罪とはなりましたが、シュトラウスは裁判の被告となったため、以降は表立った活動が大きく制限され、余生を静かに過ごすことになります。

リヒャルト・シュトラウスは1949年9月8日、心臓麻痺でドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去します。85歳の生涯でした。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏されました。

リヒャルト・シュトラウスも戦争の影響を受けた音楽家です。
この時代のドイツは狂っていたからね。でも、リヒャルト・シュトラウスが戦犯にならなくて良かったよ。

リヒャルト・シュトラウスの主な作品

リヒャルト・シュトラウスはオペラ、歌曲、交響詩、交響曲の4本柱の作曲家でした。他の作品は本当に少数です。

オペラ

『サロメ』1905年【オスカー・ワイルド/H.ラハマン】
『エレクトラ』1908年【ホーフマンスタール】
『ばらの騎士』1910年【ホーフマンスタール】
『ナクソス島のアリアドネ』1916年【ホーフマンスタール】
『影のない女』1917年【ホーフマンスタール】
『カプリッチョ』1941年【クレメンス・クラウスと作曲家自身】

歌曲

『4つの最後の歌』1948年
第1曲『春』
第2曲『九月』
第3曲『眠りにつくとき』
第4曲『夕映えの中で』

交響詩

『ドン・ファン』1888年
『マクベス』1890年
『死と変容』1889年
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』1895年
『ツァラトゥストラはこう語った』1896年
『ドン・キホーテ』1897年(チェロとヴィオラの協奏的作品)
『英雄の生涯』1898年

交響曲

『家庭交響曲』1903年
『アルプス交響曲』1915年
やはり『ばらの騎士』が代表曲のNO.1でしょうか。
そうだな。20世紀を代表するオペラだからね。彼の大傑作オペラだよ。

まとめ

リヒャルト・シュトラウスは音楽人としては大成功した人です。作曲では歴史的名曲を何曲も作曲していますし、指揮者としても有名なオペラ座、有名なオーケストラの音楽監督にもなりました。

今でも人気のある楽曲が多い作曲家です。オーケストラのコンサートでも、オペラ座の演目でも良く演奏されています。20世紀を代表する大作曲家のひとりです。

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