
『ケンタッキーの我が家』や『おお、スザンナ』などの曲は学校の音楽の時間に習った方が多くいる事と思います。フォスターは親しみやすいメロディの曲が多いために今でも各国で歌い続けられている作曲家です。
フォスターという名前は知っていてもその生涯まで知る人は少ないと思います。フォスターの曲には明るい感じの作品が多い事からその生涯も幸せに満ちていたように思っている方は多いのではないでしょうか。
しかしながら、フォスターは若くして亡くなっており、その晩年も幸せとは言えない日々を送ったのです。そんなフォスターの生涯を纏めてみました。


誕生、幼年期
幸せな家庭に生まれたフォスターでしたが、父親の事業の失敗などで幼少期から波乱に満ちた人生を送ります。
誕生
スティーブン・コリンズ・フォスターは1826年7月4日にペンシルバニアのピッツバーグで生まれました。アメリカの独立からちょうど50年後の日でした。
フォスターの父親は事業家で、フォスターは何不自由なく幸せな生活を送ることになります。フォスターは両親の9番目の子供でした。
幼年期
フォスター家は当時では珍しいピアノを持っているような裕福な家庭で、フォスターは姉たちに音楽を教わり健やかに育っていきました。
しかし、フォスターが6歳の時に父が事業に失敗し、それまでの幸せな環境を全て失ってしまいます。姉たちから音楽を教わった屋敷からも転居しなければなりませんでした。
そんな大変な事態の中でしたが、母はフォスターにフルートを与えたのです。音楽好きなフォスターにとってはこのフルートが宝物となります。辛い時期でしたが、音楽に対する思いはいつも忘れる事はありませんでした。
父親の仕事の都合で、学校を転々とする日々が続きました。しかし、彼が15歳の時に父親の事業が再び成功し、以前のような生活が戻ってくるのでした。
フォスター家に幸せが戻ってきたその年に、フォスターは父の勧めもあり、寄宿制のジェファーソン大学に入学します。しかし、フォスターの心にはいつも音楽への思いがあり、これを無視する事が出来なかったのです。
フォスターは父に音楽家になりたい事を話し、認めてもらいます。そして、音楽で身を立てる事を誓うのでした。
青年期
音楽家を志望したフォスターは学校に通う事もなくほぼ独学で音楽を勉強します。そして作曲した歌曲がアメリカで人気を博すことになります。
作曲家としての出発点
1846年、フォスターは、ドイツ系移民のクリーバーという楽器店を営む音楽家に出会います。フォスターは、クリーバーからモーツァルトやベートーヴェンなどの音楽を学び、これが、後の作曲活動の基礎となりました。
18歳になったフォスターは、『恋人よ窓を開け』の楽譜を出版社に持ちかけ、これが出版される事になります。
次々と名作を作曲
この頃、フォスターは男声合唱団を作っていました。その合唱団のため様々な名曲を作曲します。『おお、スザンナ』『ルイジアナ美人』『ネッド伯父さん』等です。
特に『おお、スザンナ』は1848年、フォスター22歳の時に楽譜が出版され、大変な勢いで売れました。16の出版社から30種類もの楽譜が売り出され、何と10万部も売れたのです。
5000部売れれば上出来とされていた当時、10万部という数字は破格の売り上げでした。しかし、フォスターにもたらされた報酬はその売り上げからは想像できないほどの少ない額だったのです。
音楽上の契約に疎かったフォスターにとっては自作が出版される事だけで満足していたのだと思われます。ただ、このヒットによって、フォスターの名前はアメリカ中に広まっていきました。
結婚
1850年(24歳)の時、フォスターは、ジェーン・マクドエルと結婚します。ジェーンは、5歳年下の19歳で、美しい金髪の女性でした。
二人は女の子を授かり、幸せな生活が続きます。その間に書かれたのが『草競馬』『ドリー・デイ』などの作品です。
黒人差別からの脱却
1851年、25歳の時、フォスターは、『故郷の人々(スワニー河)』(現在、フロリダ州の州歌)を作曲します。この頃から、アメリカ国内では黒人奴隷を差別する行為に対しての非難が起こり始めていました。
フォスターの音楽も黒人霊歌のような表現が出てくるようになり、変化していくのでした。『主人は冷たい土の中に』はこの当時の曲です。
また、同じ時期に『懐かしきケンタッキーの我が家』(現在、ケンタッキー州の州歌)も作られました。現在でも名曲としてよく歌われています。
大作曲家を夢見て
大作曲家として生計を立てたかったフォスターは楽譜出版社に勧められた事がきっかけで、大都市での成功を夢見てニューヨークで暮らし始めます。
ニューヨーク進出
1953年、作曲家として更なる飛躍を夢みたフォスターは、ひとりニューヨークへと旅立ちます。27歳の時でした。
1854年(28歳)に発表された『金髪のジェニー』は奥さんのジェーンの事を書いた作品です。妻子もニューヨークへ来ますが、ニューヨークでは良い仕事が出来ず、ピッツバーグに戻りました。
遅れて妻子もピッツバーグに戻りますが、1855年には両親を亡くし、また翌年には事業をしていた兄ダニエルも死去します。フォスターはこの事により借金を抱えるようになり、生活は困窮していくのです。
再度ニューヨークへ
1860年、34歳の時、再び家族全員でニューヨークへ移住します。大都会ニューヨークでの成功を夢見たフォスターは『オールド・ブラック・ジョー』を発表します。しかし、思うように楽譜は売れず、生活はますます酷くなるばかりでした。
また、1861年に南北戦争が始まってしまい、歌など歌っていられる状況ではなくなり、事態は更に悪化していきます。
交渉事が得意でないフォスターは、作品を出版社に安く買い叩かれ、全ての作品の版権まで奪われてしまうのでした。その日のお金にも困るような状態になり、妻子も離れていきます。
全くひとりになってしまったフォスターは、孤独のため酒に溺れる生活を送るようなり、落ちていくのでした。
晩年
晩年のフォスターは酒に溺れ、身を崩していきます。曲を作っても以前のようには売れる事もなく、最低の生活を送るのです。
最低の生活
フォスターの生活は日増しに苦しいものとなっていきました。やけ酒が習慣化し、生活費は酒代に消えていくのです。
なんとか日々の生活費を捻出しようと、楽譜出版社に印税の前借りを要求したり、兄姉から借金をしたりと、精神的にも経済的にも切羽詰った状態でした。
晩年のフォスターにはもはや音楽的才能を見出す事はできず、この頃に書かれた曲で後世まで受け継がれてきた曲はほとんどありません。
ろくな収入もなく、安宿の一室を自宅代わりにして、わずかながらの蓄えを切り崩しながら、なんとか生活を続けていました。
突然の死
1864年1月10日、マンハッタンの安宿に滞在中であったフォスターは、発熱により意識不明となり、洗面台に転倒し頸動脈を切る事故を起こしてしまいます。
病院に搬送されたものの1月13日に発熱と出血多量で死亡しました。まだ37歳という若さであり、ポケットには35セントしかなかったそうです。
フォスターの死後、楽譜が発見され『夢路より(夢見る人)』が1864年に出版されています。フォスターの白鳥の歌になりました。
フォスターは、ペンシルベニア州ピッツバーグの郊外にある広大なアルゲニー墓地の一角に埋葬されています。隣には両親や親族も一緒です。


ミンストレル・ショーについて
ミンストレル・ショーとは白人が顔を黒く塗り、黒人奴隷を真似て、黒人たちの訛りや仕草などを面白可笑しく披露したショーの事で、西部開拓当時の白人社会では人気のある娯楽でした。
フォスターの前半の人気曲も、このミンストレル・ショーのために作曲され歌われたものです。フォスターも黒人差別に関しての意識が低かった時代でした。1851年頃からは次第に差別に対しての反省の意識が芽生えてきます。
フォスターの音楽性もその頃から変化し、黒人の悲哀さなどを意識した作品も作曲するようになってくるのです。
フォスターの音楽を振り返って
南北戦争が終わり、アメリカ合衆国が発展する中、フォスターのメロディは、再びアメリカの人々の心に中に戻ってきました。そして時代を超え歌い継がれてきたのです。
フォスターのメロディは、平易で、誰でもすぐに覚える事ができます。そんなフォスターのメロディは、アメリカのみならず、世界の人々の愛唱歌となりました。
フォスターを歌い続けている合唱団も日本でも全国に数多くあります。
フォスターは何故こんなにどの世代にも人気があるのでしょうか。
その理由のひとつは誰の心の中にもすんなり入ってくる自然さだと思います。また、黒人達の歌に刺激を受け、彼らの気持ちを代弁するような美しい曲を作ったという事も大きな要素です。
主な曲目一覧
特に有名な曲を挙げておきます。
『おおスザンナ』(Oh, Susanna、1848年)
『草競馬』(Camptown Races、1850年)
『ネリー・ブライ』(Nelly Bly、1850年)
『故郷の人々』(『スワニー河』、Old Folks at Home(Swanee River)、1851年)
『主人は冷たい土の中に』(Massa’s in De Cold Ground、1852年)
『ケンタッキーの我が家』(My Old Kentucky Home、1853年)
『金髪のジェニー』(Jeannie With the Light Brown Hair、1854年)
『すべては終わりぬ』(Hard Times Come Again No More、1854年)
『オールド・ブラック・ジョー』(Old Black Joe、1860年)
『夢見る人』(『夢路より』、Beautiful Dreamer、1862年)
まとめ
フォスターはアメリカ最初の歌曲作曲家でした。『おおスザンナ』で人気を得た事が彼の運命を変えてしまいます。彼にもっとしたたかな面があったならば、もっとうまく立ち回る事が出来、名声と富を手に入れられた事でしょう。
幸せな結婚もし、子供にも恵まれましたが、そこが彼の絶頂期でした。後は落ちるところまで落ちて事故死してしまいます。
世間にはよくある話とも言えなくもありませんが、才能を持ったまま夭折してしまうのは本当に残念です。フォスターの歌は今後も歌い継がれて行く事でしょう。