ヘルベルト・フォン・カラヤンといえばクラシック・ファンならば知らない人はいない20世紀最後の偉大なる指揮者です。20世紀後半のクラシック界はカラヤンの時代ともいえる活躍をしました。
カリスマ性に溢れ、己の音楽のために最大限の努力を払った人物です。彼は常に光の当たる道を歩んできましたが、その彼にも消し去りたい失敗がありました。
「帝王」とまでいわれたカラヤンの数少ない闇の部分は、意外にも彼の心に大きな傷を残しています。それらの事件を取り上げて検証してみましょう。
バイロイト音楽祭との決別
ワーグナーの歌劇、楽劇のみが上演されるバイロイト祝祭音楽祭が、第2次大戦後再開された年から、カラヤンはその看板指揮者として期待されていました。
しかし、歌手と指揮者のトラブルや演出への不信などから、この音楽祭と決別したのです。
戦後再開されたバイロイト
第2次世界大戦後の1951年、ようやくバイロイト祝祭音楽祭が復活します。この年は開幕にあたって、フルトヴェングラー指揮のベートーヴェン『交響曲第9番』が演奏され、話題を呼びました。
今でも「バイロイトの第九」として聴き継がれている演奏です。
この年のオペラ公演はクナッパーツブッシュとカラヤンのふたりが柱となりました。
音楽祭は資金が不足していて舞台演出にかける予算がなく、最低限の簡素なセットと照明で舞台背景を作り出していたのです。
これは新バイロイト形式としてゆくゆく定着していくのですが、この時のふたりの指揮者には単にみすぼらしく見えただけだったと思います。
歌手たちの衣装も酷いもので、カラヤンといさかいを起こす張本人、アストリッド・ヴァルナイは「まるでじゃがいもの袋でできているよう」とまで回想録に記述していました。
クナッパーツブッシュもカラヤンも演出に最大限の批判をし、翌年からの改善を求めたのです。
翌年のバイロイト祝祭音楽祭
1952年のバイロイト祝祭音楽祭はクナッパーツブッシュとカラヤン、そしてカイルベルトが指揮を務めました。
この年も資金難の影響で、前年同様の簡素な舞台セットで行われています。それでも音楽祭は最後まで行われました。
音楽祭終了後に、演出の事でクナッパーツブッシュとカラヤンは怒りをあらわにし、音楽祭からの辞退を表明するまでに発展します。
そして、事実翌年の1953年は二人の指揮者はバイロイトに参加しませんでした。
歌手とのトラブル
カラヤンの場合はそれだけの理由に留まらなかったのです。
ソプラノ歌手のアストリッド・ヴァルナイはカラヤンの指揮を批判し、「何拍子を振っているのか分からなくて歌えない、バイロイトにはカラヤンは要らない」旨の手紙を、主催者のワーグナー兄弟へと送りました。
バイロイト祝祭音楽祭の主催者側は彼女の言い分を受け入れ、カラヤンとの契約を打ち切るのです。
この事にカラヤンも大激怒!二度とバイロイトへは戻らないと決意します。また、カラヤンはバイロイトの主催者側へ訴えたヴァルナイに恨みを持ち、彼女との絶交を宣言しました。
実際、この後12年間、カラヤンと彼女は共演する事が一切なかったのです。
バイロイト祝祭音楽祭との決別の後日談
カラヤンはバイロイト祝祭音楽祭との決別から3年後、ベルリン・フィルの終身音楽監督に就任します。その翌年、ウィーン国立歌劇場の総監督にも就任が決まりました。
カラヤンがバイロイトに行かなくても、ウィーン国立歌劇場やザルツブルク音楽祭でワーグナーのオペラを指揮する事ができる環境が整ったのです。
しかしその後、ウィーン国立歌劇場との契約が1964年に切れ、カラヤンがオペラを振る場所がなくなります。
そこでカラヤンが考え出したのが、ザルツブルク復活祭音楽祭でした。オーケストラピットになんとベルリン・フィルを入れ、カラヤンが大好きだったワーグナーの楽劇を上演する場を作り上げたのです。
カラヤンとザルツブルク市、そしてレコード会社との思惑が一致して考え出された音楽祭でした。流石はカラヤン、「帝王」とまでいわれた底力を発揮して、自分の音楽祭まで作ってしまったのです。
もうひとつのソプラノ歌手ヴァルナイとの確執ですが、カラヤンがウィーン国立歌劇場の総監督時代中にどうしてもザルツブルク音楽祭で彼女を使いたいと思った事から、カラヤン側から彼女に出演オファーしています。
その条件には過去のことは一切話題にしない事も含まれていました。ふたりの仲を取り持ったのはEMIのプロデューサーのレッグと言われています。
ヴァルナイはオファーを受けますが、その代わり多額のギャラを要求しました。転んでもただでは起きない人物だったようです。
マリア・カラスの呪い
オペラファンならご存じの方も多いのではないでしょうか。1964年12月17日のイタリア、ミラノ・スカラ座でのヴェルディ『椿姫』公演。
指揮はカラヤン、演出はゼッフィレッリ、ヴィオレッタはミレッラ・フレーニと役者が揃った公演でしたが、この公演は大失敗に終わったのです。
マリア・カラスの名演
「マリア・カラスの呪い」というぐらいですから、マリア・カラスが関係しているのは確かですが、彼女からすればとても迷惑な話だったのではないでしょうか。
1955年と1956年にスカラ座で上演されたヴェルディ『椿姫』はヴィオレッタにマリア・カラス、演出はヴィスコンティ、そして指揮はカルロ・マリア・ジュリーニが務めました。
歌手、演出、指揮ともに超一流の才能が集まったこの公演は超がつくほど素晴らしい出来であり、名演となったのです。スカラ座始まって以来の大成功となり、興行収入も記録的なものとなりました。
ミラノの聴衆たちはカラスのヴィオレッタ役に大興奮し、その完成度の高さに驚いたのです。耳の肥えた聴衆が多いスカラ座ですから、カラス以上のヴィオレッタはもう誰にも歌えないだろうと多くの人が思いました。
スカラ座の劇場側もこの公演があまりにも反響が大きく、カラスのイメージが強かったので、『椿姫』を舞台にかけるのはしばらく止めようと決断したほどだったのです。
8年後の新演出上演
1964年にスカラ座はもう大丈夫だろうと判断し、ヴェルディ『椿姫』の新演出上演を決定します。
指揮にカラヤン、演出ゼッフィレッリ、そしてヴィオレッタ役にはミレッラ・フレーニが起用されました。ヴィオレッタ役はダブル・キャストでアンナ・モッフォもキャスティングされています。
その頃のスカラ座ファンはソプラノのレナータ・スコットの登場を待ち望んでいた事も伏線にあったのです。しかし、カラヤンが選んだのは急速に頭角を現してきたフレーニでした。
1964年12月17日。その公演の幕が開きます。もう第1幕の最初からフレーニの演技に対して天井桟敷からヤジが飛び始め、歌に対してもブーイングの嵐となっていきました。
フレーニもこれには怒りをあらわにし、第1幕のカーテンコールで腰に手を当て天井桟敷席を睨み返したようです。
主役を務める歌手はこれぐらい強気でないと務まりませんが、その日は火に油を注ぐようなものでブーイングの雨あられとなりました。
8年前のカラスの名演を忘れられない聴衆とスコットファンの怒りも加わり、収拾が付けられない状況になってしまったのです。
フレーニはその後をキャンセル、その後をモッフォが代役で務めました。
フレーニの準備不足とカラヤンの音楽作りにも原因があったとも言われていますが、最大の要因はカラスの『椿姫』に固執するスカラ座の聴衆、特に天井桟敷席の聴衆の存在だったのです。
カラヤンはその後『椿姫』を二度と指揮する事がありませんでした。フレーニもスカラ座への客演はしばらくなかったといいます。
「マリア・カラスの呪い」がかけられたスカラ座
1964年のカラヤン、フレーニの大失敗によって、マリア・カラス以外ヴィオレッタの歌は歌わせないと思うミラノの聴衆が増えた事は確かでしょう。
「それみた事か、カラヤンでも何の役にも立たなかったではないか」と思った方も多かったと思います。
スカラ座にとって『椿姫』はマリア・カラスの影響が強すぎてしばらく上演できなくなりました。これが1992年までの28年間も続いたのです。この一連の騒動を「マリア・カラスの呪い」と呼んでいます。
カラヤン、フレーニでさえ失敗したのだから、自分には歌えないと思う歌手がでてくるのは仕方がないと思います。みんな怖くて上演する事に腰が引けてしまったのです。
ましてや「マリア・カラスの呪い」などという言葉が作られ、その言葉が独り歩きしている状態では劇場側としても『椿姫』上演を見合わせるしかありませんでした。
カラスの影響がなくなるまでスカラ座は待つしかないと考えていたのです。
カラヤンの失敗から28年後の1992年、その封印を解いたのがリッカルド・ムーティでした。カラスの影響も少なくなったと判断した劇場側も協力して、天井桟敷席にはさくらの客を入れたようです。
こうしてようやく「マリア・カラスの呪い」は終わり、スカラ座での『椿姫』上演が再開されました。
ザビーネ・マイヤー事件
ザビーネ・マイヤー事件はカラヤンとベルリン・フィルとのバランス関係が崩れたきっかけを作った事件でした。
ひとりのオーボエ奏者のベルリン・フィル入団をめぐる揉め事が、カラヤンとベルリン・フィルの友好関係をも壊すまでの大事となってしまったのです。
ザビーネ・マイヤーについて
ザビーネ・マイヤーは1959年生まれのドイツのクラリネット奏者です。シュトゥットガルト音楽院卒業後はバイエルン放送交響楽団に入団しました。
1981年、マイヤーはベルリン・フィルのオーディションを受けましたが、この事がこんなに大事に発展するとは思ってもいなかったでしょう。
その顛末は後で記述することにして先に進めますが、結局はベルリン・フィルに入団出来なかった彼女はオーケストラの一員として活動する事を選択せず、ソロ活動の道を選びました。
事件で世界的に有名になった事もあり、屈指のクラリネット奏者となり、現在も意欲的に活躍しています。
ザビーネ・マイヤー事件の本質
事件の概要をざっと記述すると、1981年にマイヤーはベルリン・フィルの主席クラリネット奏者のオーディションを受けました。
カラヤンはオーディションの彼女の演奏を聴いて、彼女の入団を希望しましたが、オーケストラ側が難色を示します。
その後、マイヤーを仮採用させるかどうかの楽員投票が行われ、オーケストラ側がこれを否決したのです。「ベルリン・フィルに彼女の音色は合わない」これが理由でした。
これにカラヤンが激怒し、ベルリン・フィルとは契約の最低限の数のコンサートはこなすが、それ以外の活動は行わないと宣言し、両者の対立となりました。
カラヤンはこれを期にウィーン・フィルとのコンサートを行うようになります。この事が更に事態を悪化させていきました。
最終的に政治問題にも発展し、両者は和解という形を取りますが、一度崩れた信頼関係を構築し直すには余りにも深い溝が出来てしまっていたのです。
今までカラヤンに従っていたオーケストラ側が、カラヤンの意のままにはならないとの決意を表明し、カラヤンというカリスマ指揮者の凋落につながっていった事件でした。
カラヤン晩年の大失敗
カラヤンにとって手兵のベルリン・フィルが自分に反旗を翻すとは全く思ってもいなかった事だったでしょう。
だからこそ、ザビーネ・マイヤーの仮入団が否決された事に対してあれだけの怒りに繋がったのです。オーケストラの奏者の選考という事が問題だったのではなく、自分を否定された事がショックだったのだと思います。
カラヤンは自分のおかげでベルリン・フィルの財政が潤い、これだけの高収入をもたらしているという自負を持っていました。
ベルリン・フィルの団員たちは喜びこそすれ、まさか不満が溜まっていたとは考えもしなかった事と想像できます。
思いのままにベルリン・フィルを操り、名声を高めたカラヤンも、団員たちの心までは掴めていなかったのです。
オーケストラの世界でも民主的な運営が一般的になっている事を知ってはいたと思いますが、自分が生きている間はベルリン・フィルは変わる事はないと思っていたのでしょうか。
この事件をきっかけにして、最終的にベルリン・フィルのポストを辞任するまでに至りました。まさか、こんな形で終わりを迎えるとは誰が予想したでしょうか。
まとめ
「帝王」カラヤンでも大きな失敗を経験しています。ここに挙げた3つの出来事はカラヤンのその後の仕事にも大きな影響を与えました。
バイロイト祝祭音楽祭からの締め出し、『椿姫』の大失敗、ザビーネ・マイヤー事件からのベルリン・フィルとの大きな溝、特に最後のひとつはカラヤンにとって最も辛い事だったと思います。
しかし、どんなトラブルにも滅気なかったのがカラヤンでした。カリスマ指揮者の意地でもあったのでしょう。最後まで音楽美を追求した人物でした。